サウジアラビアの情報機関の元トップが、20年前に起きたアメリカ同時多発テロ事件を振り返る。ビンラディン容疑者との関係はどのように変化していったのか? https://t.co/9Xpm7WlpSj
— NHKニュース (@nhk_news) 2021年9月21日
国家に衝撃 15人の実行犯
サウジアラビアの3代目国王ファイサル氏(1964年~75年まで在位)の息子、トルキ王子(76)。1977年にサウジアラビアの情報機関トップに就任し、同時多発テロ事件の直前まで20年以上にわたって務めました。
その後も、駐米大使など要職を歴任し、政治や外交の舞台で活動してきました。
Q 事件が起きる前、情報機関のトップとしてあなたはどのような情報に接していましたか?
トルキ王子
2001年の夏、世界中の情報機関は何かが起こりそうだという情報を得ていました。大変な事態が想定されましたが、情報は具体的ではありませんでした。
アメリカやヨーロッパなど各国と起こりうるテロ行為について共有しましたが、情報は十分ではありませんでした。
Q サウジアラビアで事件は、どのように受け止められましたか?
トルキ王子
最初に述べておきたいのは、事件はサウジアラビアが未来永ごう、背負っていかなければならない汚名だということです。人々が事件を思い出すとき、必然的にサウジアラビアのことを考えます。事件に15人ものサウジアラビア人が関わっていたと知り、国全体が大きな衝撃を受けました。事件を受け、教育や文化、宗教といったあらゆる分野で私たちが見落としていた問題はなかったか、若者らに過激思想を広めた人はいなかったか、検証がなされました。
その結果、例えば宗教界では多くの人が解雇され、再教育の対象となりました。
Q 実行犯に15人の自国民が含まれ、サウジアラビア政府の関与について疑惑の目が向けられたことをどう捉えていますか?
トルキ王子
実行犯のメンバーは、ビンラディン容疑者が勧誘したという証言が、アメリカで拘束されているほかの容疑者から得られています。エジプトやUAE=アラブ首長国連邦の国籍を持つ者に加えて、15人ものサウジアラビア人を選んだのは、ビンラディン容疑者自身なのです。
トルキ王子
これはビンラディン容疑者に、サウジアラビアに汚名を着せたいという考えがあったからでしょう。彼の企ては成功したのです。サウジアラビアは、ビンラディン容疑者の背後に存在したのではなく、犠牲者なのです。
Q アメリカでは遺族が、事件にサウジアラビア政府の関係者が関与したという疑いを持ち、実際に捜査が行われてきました。疑惑を調べた捜査報告書の公開も進められています。これについて、どう考えますか?トルキ王子
われわれが隠していることは、何もありません。事件のあとアメリカのブッシュ元大統領を訪問した、当時の外相は「アメリカ側が公表したい情報があるのであれば、どうぞ公開してください」と述べました。オバマ政権時代には、(議会の報告書)28ページが公開されましたが、何も出てこなかったのを覚えているでしょう。
公開したいものがあるのであれば、今すぐにでも公開してください。
Q 情報機関として、事件を防ぐことはできなかったのでしょうか?
トルキ王子
それは、私たちだけの問題ではありません。世界各国の情報機関についても言えることです。サウジアラビアよりはるかに優れているアメリカやヨーロッパの情報機関も防ぐことができませんでした。
われわれが防ぐことができなかったからといって、不思議ではありません。
ビンラディン容疑者は1950年代に、サウジアラビアの王族と深いつながりのある裕福な家に生まれました。
過激な活動に身を投じる契機となったのは、1979年の旧ソビエトによるアフガニスタン侵攻です。ビンラディン容疑者は同じイスラム教徒の同胞を支援するため現地に渡り、義勇兵を率いて武力闘争を展開。のちの国際テロ組織アルカイダの結成につながりました。
ただ当時は冷戦時代。アメリカ政府は、旧ソビエトと戦う義勇兵を支援していました。また、イスラム教国家の盟主を自任するサウジアラビアも資金援助するなど、義勇兵たちの活動を後押ししていました。
ただ冷戦も終わりに近づき、旧ソビエトがアフガニスタンから撤退すると、義勇兵たちの活動の大義は失われ、サウジアラビアとビンラディン容疑者の間に、溝が生まれていきました。
Q 義勇兵たちのアフガニスタンでの活動に一区切りがついたあと、ビンラディン容疑者とサウジアラビアの関係はどうなっていきましたか。
トルキ王子
ビンラディン容疑者は、旧ソビエトがアフガニスタンから撤退したあとの1989年、情報機関にいた私を訪ねてきました。彼は、次は共産主義勢力が国を治めていた隣国の南イエメン(当時)に、アフガニスタンの義勇兵を送り込み、政権を打倒したいと言ってきたのです。
トルキ王子
私は、サウジアラビアは外交を通じてそうした目的を達成しようとしており、義勇兵を送り込むことはかえって混乱を招くと答えました。Q なぜ提案を断ったのですか?
トルキ王子
国際的な問題は外交で解決されるべきです。提案を許可し「私たちの隣国を攻撃してください」などと言うことは到底できませんでした。
中東ではさらにその後、両者の対立が決定的となる出来事が起こります。1990年のイラクによるクウェート侵攻に端を発した、湾岸戦争です。これに対処するため、サウジアラビアはアメリカ軍の駐留を受け入れましたが、イスラム教の聖地がある祖国への異教徒の駐留にビンラディン容疑者は強く反発したのです。
これ以降、ビンラディン容疑者はサウジアラビアと同盟関係にあるアメリカに、矛先を向けるようになりました。
過激な活動が手に負えなくなる中、サウジアラビアは94年に、ビンラディン容疑者の国籍を剥奪しました。
Q 湾岸戦争に対するサウジアラビアやビンラディン容疑者の対応はどうでしたか?
トルキ王子
フセイン政権下のイラクによるクウェート侵攻には、サウジアラビアだけでなく世界中が反対しました。このとき、ビンラディン容疑者は当時のサウジアラビアの国防相を訪れ、今度は義勇兵をクウェートに派遣し、フセイン大統領の軍を撤退させると言ってきました。
これに対し国防相は「提案ありがとう。必要な時に声をかけるので、あなたから訪ねて来るのはやめてください」と答えたそうです。
私の考えでは、南イエメンとクウェートへの義勇兵派遣の提案を拒否されたことが、ビンラディン容疑者に、サウジアラビアの体制転覆を目指すきっかけになったのだと思います。
彼にとって、サウジアラビアは祖国ではなくむしろ倒すべき敵となったのでしょう。
Q 関係が悪化し、過激な行動をとるようになったビンラディン容疑者を止める機会はなかったのでしょうか?
トルキ王子
ビンラディン容疑者に、テロ行為などの裁きを受けさせるため、私はアフガニスタンに2度行き、タリバンの当時の最高指導者だったオマル師と会談しました。しかし、オマル師は引き渡しを拒否しました。これは、1998年のことです。この頃から、アルカイダは外国での活動を活発化させ、アフリカではアメリカ大使館を狙ったテロ事件も起きました。
Q 同時多発テロ事件から20年がたちますが、今のアルカイダをどう分析しますか?
トルキ王子
アルカイダは、以前に比べれば規模が小さくなりましたが、いまも健在です。シリアやアフガニスタンで活動を続けています。
過激派組織IS=イスラミックステートのような、分派組織をつくることにも成功しています。
アルカイダに終止符を打ったといえるようになるには、まだ道のりは長いでしょう。
専門家「宗教の大義のもと容認された暴力」
トルキ王子のインタビューからは、サウジアラビアやアメリカが一時は利用したビンラディン容疑者が暴走し、手に負えなくなっていく様子がうかびあがります。
サウジアラビア情勢に詳しい日本エネルギー経済研究所の保坂修司理事は宗教の大義を掲げたビンラディン容疑者の活動は、当初政府にとって、社会の安定のためにも都合が良かったと指摘します。
日本エネルギー経済研究所 保坂修司理事
「サウジアラビア政府にとっては、社会に不満を抱く若者の受け皿として、アフガニスタンの義勇兵は都合が良く、イスラム教の大義のもと、暴力が容認されていたのです」「しかし、次第にその扱いに困り、手が付けられなくなり、最終的には牙をむくことになりました。宗教による大義を安易に利用した結果、過激な組織を生み出す結果となったのです」
国連演説 イラン大統領 アメリカに全面的な制裁解除求める #nhk_news https://t.co/h3YafOXo5E
— NHKニュース (@nhk_news) 2021年9月21日
イランのライシ大統領は初めての参加となる国連総会で21日、事前に収録されたビデオを通じて演説しました。
このなかでライシ大統領は、核合意を離脱したアメリカがイランへの制裁を再開したことについて「新たな戦争の手段だ」と述べて重ねて非難しました。
一方、アメリカのバイデン大統領は同じ21日に行った国連総会の演説で「イランが核合意を順守するならわれわれはこれを厳格に守る用意がある」と述べ、核合意の立て直しに前向きな姿勢を示しました。
ただ、合意の立て直しに向けたアメリカとイランの間接協議はことし6月以降、中断していて、これについてライシ大統領はビデオ演説の中で「すべての抑圧的な制裁の解除という結果につながる協議こそが有益だと考えている」と述べ、アメリカに対して全面的な制裁解除を求めました。
アメリカはこれまで全面的な制裁の解除には応じない立場を示していて、双方が妥協点を見いだすのは容易ではない情勢です。
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