https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

d1021.hatenadiary.jp

#テレビ

秋篠宮妃の紀子さまは11日、56歳の誕生日を迎えられました。

紀子さまは誕生日にあたって、記者の質問に文書で回答を寄せられました。

このうち、コロナ禍での皇室の活動の在り方については「多くの関係者の努力により、感染対策をしながら様々な形で人々と関わることができるようになり、交流の幅が広がってきているように思います」としたうえで、「これからも、感染症などの専門家とも話し合いながら務めをよりよく果たすためにどのようにすればよいかを考えつつ、活動を進めてまいりたいと思います」と述べられました。

次女の佳子さまについては、「公的な活動などの経験を重ねながら、皇族としての務めを十分に果たしていってほしいと思います。結婚や将来につきましては、次女の気持ちや考えをよく聞き、またこちらの思いや考えを伝えていくことができればと思っています」と語られました。

また、長男の悠仁さまについては、この春に入学した筑波大学附属高校でバドミントン部に入ったことのほか、夏の全校高校総合文化祭で、高校生たちの競技かるたを観戦されたことにも触れ、「思いを詩歌に託すことをはじめ、工芸や絵画、書道など、古くから日本にある文化を大切に思う心も育んでいってほしいと願っています」と述べられました。

去年10月に小室圭さんと結婚した長女の眞子さんについては「二人で力を合わせ、健康にも気をつけて、新しい生活を心穏やかに送れるように心から願っております」としたうえで、「今は直接会うことが叶いませんが、庭の花の世話をしながら、木香薔薇のアーチを作り、いつか娘と一緒にゆっくり庭を歩くことができましたら、と思っております」とつづられました。

紀子さまの誕生日にあたって宮内庁は、秋篠宮ご夫妻がお住まいの一室で絵本や植物図鑑を読む映像を公開しました。

映像は、8月18日の午前中に撮影されました。

このうち絵本は、紀子さまが親交のある作者の1人から贈られたものだということで、紀子さまが手に取って朗読すると秋篠宮さまはにこやかな表情でうなずきながら聞かれています。

絵本のもう1人の作者である、松岡享子さんは、ことし1月に亡くなっていて、紀子さまは誕生日にあたっての文書回答の中で、「3人の子どもたちが幼かったとき、松岡さんがいらした東京子ども図書館に出かけて本を読んだり、昔話などのお話を聞いたりしたことを懐かしく思い出しております」とつづられています。

宮内記者会が紀子さまに寄せた質問と、回答の全文です。

(問1)新型コロナウイルスの影響が続く中、オンラインでの活動と並行し、地方訪問なども再開されました。

この1年の活動を振り返っての感想とともに、コロナ禍での国民との関わり方や皇室の活動のあり方についてお考えをお聞かせください。

警備のあり方を問われる重大な事件もありましたが、この1年に国内外で印象に残った出来事についてもお教えください。

紀子さま)<この1年の活動をふり返っての感想>この一年をふり返ると、オンラインの行事や都内での対面の行事に出席することに加えて、地方に出かける機会も少しずつ増え、様々な形での活動ができるようになってまいりました。

まず、国際的な学会や会議がオンラインで開催されることで、海外の医療や保健の専門家が主催するシンポジウムを自宅で聴いたり、お話を伺ったりする機会が増えました。

昨年の9月には、「第22回世界妊娠高血圧学会」開会式にオンラインで出席しましたが、ビデオメッセージを準備する中で、妊婦や新生児の周産期死亡の主な原因の一つである妊娠高血圧腎症と、その予防や治療の課題を知ることができました。

また、10月の「第52回国際結核肺疾患予防連合 肺の健康世界会議」では、基調講演などのプログラムをオンライン聴講し、「秩父宮妃記念結核予防世界賞」の受賞者とはリモートで懇談し、結核対策に関わる研究と活動についてお話を伺いました。

こうした通信技術を用いることによって、様々な理由で移動できない人が行事に参加したり、画面上で「出会う」ことができるようになったりして、オンラインの良さに気づく機会になりました。

対面の行事では、この4月には、昨年度お会いできなかった方も含め母子保健奨励賞を受賞された保健師助産師、医師や歯科医師にお目にかかることができました。

また7月におこなわれた恩賜財団母子愛育会の「第54回愛育班員全国大会」では、地域でボランティア活動をおこなう愛育班員の代表の方々と約3年ぶりにお会いしてお話ができました。

コロナ禍が続く中で、今まで以上に困難な状況にある親子に気づき、それを支援する専門家とボランティアから、人に寄り添う取り組みについてお話を伺い、対面することで心のふれあいが深まるコミュニケーションがいかに大切かを、改めて知らされる思いがしました。

夏には、「全国高等学校総合体育大会」や「全国高等学校総合文化祭」、「全日本学生児童発明くふう展」、「日本スカウトジャンボリー」において、宮様とご一緒に若い世代の人たちと直接会って交流する機会に恵まれました。

高校総体と高総文祭においては、これまで続けてきた練習や活動の成果を発表する機会が少なかった高校生たちの喜びの気持ちが伝わってくるようでした。

それとともに、大会の運営を支える高校生たちと直接お話しすることができたこともうれしい思い出です。

また、全日本学生児童発明くふう展では、感染対策に資するものやSDGs達成のためにできること、平素の生活空間で必要と考えられることに対応する道具を作り出す、着眼点と創造力に驚かされました。

そしてスカウトジャンボリーでは、COVID-19の状況に鑑み、各地の会場のスカウトたちがオンラインでつながり、元気に活動を紹介し交流する様子を見ることができました。

若い人たちが、感染症のために様々な制約・不自由がある中で、今できることを見つけて工夫し、挑んでいく姿が心に残りました。

<コロナ禍での国民との関わり方や皇室の活動のあり方についての考え>宮様が、昨年のお誕生日の会見でお話をされていましたように、折々の状況に応じた形で、できるだけ人々と交流する機会をもつためにはどうすればよいのかを考えることが大事であると思っております。

コロナ禍のために、以前のように幅広く大勢の人々と直接にお会いすることが難しかった時期がしばらく続きましたが、多くの関係者の努力により、感染対策をしながら様々な形で人々と関わることができるようになり、交流の幅が広がってきているように思います。

そうした中で、人と人とが対面して、あるいはオンラインでつながる場を作るなど、交流の機会やその環境を整えるために、力を尽くしている方々の活動をありがたく思っております。

これからも、感染症などの専門家とも話し合いながら務めをよりよく果たすためにどのようにすればよいかを考えつつ、活動を進めてまいりたいと思います。

<この1年に国内外で印象に残った出来事>今年は、不安定な気候と酷暑が続く中、7月に入ってからCOVIDー19の流行が急拡大しました。

収束時期が見通しにくい状況下、医療を日々続けている関係者、感染防止に留意しながら高齢者の介護や子どもの保育・教育に携わっている関係者などの様々な努力に深く感謝しております。

また今年も、記録的な大雨や河川の氾濫などによる被害も各地で生じました。

COVID-19流行に伴う不便さや不安、そして自然災害などによって、生活の基盤に大きな影響を受けた人々のご苦労はいかばかりかと、案じております。

世界に目を向けても、異常気象や厳しい世界情勢などによって住む場所を失った人々、命を落とした人々のニュースが続いています。

「令和4年(2022年)広島平和記念式典」において、こども代表の小学生が、「今この瞬間も、日常を奪われている人たちが世界にはいます」と述べた言葉を聞いた折には、一人の母親として、子どもたちが未来への希望を失わないようにと願っています。

この一年に国内外で印象に残った出来事を思い起こすと、うれしいこと、悲しいこと、様々でした。

科学の分野では、眞鍋淑郎さんが昨年の秋にノーベル物理学賞を受賞され、また文化勲章を受章されたことは、大変喜ばしいことです。

また、2020年に帰還した宇宙航空研究開発機構JAXA)の探査機「はやぶさ2」が小惑星リュウグウで採取した試料は生命の起源の解明の手がかりになるという報道がありました。

この試料のレプリカは各都道府県で展示され、子どもたちが小惑星から宇宙へと興味を広げることにつながるのではと期待しています。

スポーツの分野では、パラリンピックで金メダルを取った車いすテニス選手の国枝慎吾さんが、昨年の全米オープンから四大大会をすべて制し、「生涯ゴールデンスラム」を達成したことが印象に残りました。

悲しいお別れもありました。

海外の児童書の翻訳も手がけられ、子どもたちが読書によって人類の知恵を吸収することを願い続けてこられた東京子ども図書館名誉理事長の松岡享子さんが1月に亡くなられたことは、とても寂しいことでした。

3人の子どもたちが幼かったとき、松岡さんがいらした東京子ども図書館に出かけて本を読んだり、昔話などのお話を聞いたりしたことを懐かしく思い出しております。

また先月、文化勲章受章者の森英恵さんが亡くなったことを大変残念に思います。

私や娘たちにも、宮中での大切な行事のための装いをお作りくださいました。

日本の服飾文化からタイ王室で作られている絹地への思いまで、幅広いお話を伺ったことは、よい思い出になっております。

また先日、長年携わってきた結核予防活動に関連する大きなニュースとして、日本がWHO(世界保健機関)の基準での「結核低まん延国」になったという(厚生労働省による)発表がありました。

戦後、結核が高まん延状態にあった時期から今日まで、結核を減らすための対策に尽力してきた関係者に感謝しております。

一方、近年の急激な患者数の減少は、COVID-19による受診率の減少も関係があると考えられるため、今後も経過の観察と結核に罹るリスクが高い人々に対する支援が必要であると聞いています。

感染症には国境がないと言われる中で、COVID-19と同様に、結核やその他の感染症への対策は、世界の国々や国際的な協力が重要であると思います。

皇室の関係では、COVID-19のため延期になっていた立皇嗣の礼後の神宮ならびに山陵への参拝を今年の4月におこなうことができました。

これをもって、御大礼に関係する行事のすべてが終了したことになり、私どもも安堵するとともに、今の立場に伴う責任への思いを新たにしました。

コロナ禍により世界の人々が困難に直面している時期に一連の行事を終えることになりましたが、これからも宮様とともにいかなる時節にあっても人々の暮らしの安寧を祈り、天皇皇后両陛下をお支えしながら、務めを果たしてまいりたいと思っております。

上皇陛下には、米寿をお迎えになりました。

コロナ禍以降は、上皇上皇后両陛下へご挨拶申し上げる機会が限られていましたので、いかがお過ごしでいらっしゃるかと折にふれて思いながら過ごしておりました。

そのような中、今年の春に赤坂御用地にお引き移りになり、お二方ご一緒で御用地内をご散策中にお目にかかることもあります。

お身体を大切にされ、穏やかな時間をお過ごしになられることを願っております。

昨年の12月には、敬宮様が成年を迎えられました。

娘たちと一緒にすてきな笑顔を見せて遊んでいらっしゃったご幼少の頃から、あっという間に月日が経ったようにも感じます。

また、今年の6月には、三笠宮妃殿下が白寿の節目を迎えられました。

皇室のご慶事の続いた一年でした。

天皇皇后両陛下をはじめ、皆さまがこれからもお健やかにお過ごしになられますよう願っております。

<結びに>この一年の間に様々なことがありましたが、誰もが安全で安心して暮らせる社会であってほしいと強く願わずにはいられません。

今までに経験したことがない感染症に遭遇した当初は対応に苦慮し、自粛生活が人々の心身の健康にも、そして生き方にも大きな影響を与えてきました。

感染症の状況は予断を許しませんが、この一年はもう一歩、それぞれの活動を進める模索や工夫が各地でおこなわれているように感じました。

その中で、声を上げることが難しく、辛く悲しい気持ちでいる人たちが取り残されることのないように、広い視野をもつことが大切なのではないかと思います。

感染症や気候変動について考えるとき、私たち一人ひとりの行動が隣の人に、更に遠くの地に暮らす人たちへも、そして地球全体に影響を与えていることに気づかされます。

お互いを大切に思い、支え合いながら、この時節を乗り越えていくことができるよう努めてまいりたいと思います。

(問2)ご家族についてお伺いします。

佳子さまは、新たな公務や総裁職就任など活動の幅を広げられていますが、今後の活動や仕事に対する期待、結婚についてのお考えをお聞かせください。

筑波大附属高校に入学された悠仁さまの学校生活や日常生活の様子をはじめ、大学進学や留学など将来に期待することをお教えください。

皇位継承順位2位の悠仁さまに対する教育方針についてどのようにお考えでしょうか。

紀子さま)次女について<今後の活動や仕事に対する期待、結婚についての考え>次女の佳子は、長女が総裁職を務めていた日本テニス協会日本工芸会の総裁職に就任しました。

新たな出会いを大切にしながら、それぞれの仕事に携わっているように思います。

たとえば、日本工芸会の総裁就任にあたって、伝統工芸の分野ごとに専門家の貴重なお話を伺い、知識を深めているようでした。

また、以前は長女が出席していた緑化関係の行事「みどりの『わ』交流のつどい」、「みどりの感謝祭」と「都市緑化祭」でも、関係者の話を聞き、資料を読む中で、森林と都市の緑化の意義について理解を深め、関係する方々とお話しする機会があったことをありがたく思っているようです。

今年の6月、日本乳癌学会の行事、創立30周年記念式典の準備をする過程でも貴重な学びがあり、文献や関係するサイトを丁寧に読み、専門家から話を聞いて、自分が語るべきことは何か、真剣に考えていました。

そして、以前から出席している「全国高校生手話パフォーマンス甲子園」や、参加しているガールスカウト日本連盟ジェンダー平等をテーマとした行事などについても、引き続き大切に取り組んでいます。

これからも、公的な活動などの経験を重ねながら、皇族としての務めを十分に果たしていってほしいと思います。

結婚や将来につきましては、次女の気持ちや考えをよく聞き、またこちらの思いや考えを伝えていくことができればと思っています。

長男について<学校生活の様子>長男の悠仁は、今春、お茶の水女子大学附属中学校を卒業し、筑波大学附属高等学校に入学して新しい学校生活が始まりました。

高校では、授業だけでなく、課外活動も楽しみ、充実した日々を送っているようです。

バドミントン部に入り、同級生や上級生と一緒にトレーニングに励み、7月下旬の「蓼科生活(クラス合宿)」では、登山やキャンプファイヤーなどを通して、クラスメートとの絆を深めたようです。

<日常生活の様子>この春から、トンボ類をはじめとする生き物の調査を、より積極的に進めるようになりました。

そして、宮邸周辺の虫や植物などの生息環境と生物多様性保全に関心を広げている様子です。

また今年も、長男が米作りをしている田んぼは、家族皆で耕して、畦塗りや代かきをし、田植えをしました。

もうすぐ収穫の時期を迎え、稲刈りをする予定です。

また、時間を見つけていろいろな野菜を栽培し、成長の具合を確かめ、気を配りながら世話をしている長男のそばで、私たちも草むしりなどの作業をしています。

収穫した野菜を食事の折に皆で楽しんでいます。

<大学進学や留学など将来に期待すること>長男には、国内外において様々な分野で学ぶ人々や社会で働く人々とも交流し、広い視野で世界を見ていけるようになってほしいと思っております。

そうした中で、自分のテーマを見つけ、探究しながら、自分の進む道を拓いていってくれればと考えております。

<教育方針について>高校生になり、学校やそれ以外での活動が増えていく中では、見通しを持って計画をたてながら取り組むことが今までよりも求められるようになると思います。

また、様々な場面において自分の言葉や行動について判断することが必要となり、それに適切に対応していくことができるようになることも重要であると考えております。

また宮様が、以前の記者会見で教育方針について聞かれたとき、国内のいろいろな場所に出かけて、その土地の文化にふれる機会をもってもらえたらうれしいと話されていました。

今は学校生活が中心ですが、この夏は高校生が参加する行事に私たちと一緒に出席しました。

全国高等学校総合文化祭では、高校生たちが百人一首かるた競技に熱心に取り組む姿を長男も会場で観覧しましたが、想いを詩歌に託すことをはじめ、工芸や絵画、書道など、古くから日本にある文化を大切に思う心も育んでいってほしいと願っています。

(問3)眞子さんと小室圭さんの結婚は、儀式や行事が行われないなど異例続きとなり、両殿下はご感想で「皇室への影響も少なからずありました」「類例を見ない結婚となりました」などと綴られました。

改めて今回の結婚や経緯についての受け止め、お二人に対する今のお気持ちや今後の期待をお聞かせください。

米国で生活する眞子さんの近況や生活についてはどのように把握され、どうお感じになっていますか。

連絡を取り合っていることや、親子で話し合われていることがあればあわせてお聞かせください。

紀子さま)<今回の結婚や経緯についての受け止め>二人の結婚から一年が経とうとしています。

二人は確かな考えを持って、結婚に至るまでの過程を周囲と相談しながら、旅立ちの日を迎えました。

それまで支えてくださった多くの方々への感謝の気持ちを今も抱き続けているようです。

<二人に対する今の気持ちや今後の期待>二人で力を合わせ、健康にも気をつけて、新しい生活を心穏やかに送れるように心から願っております。

二人の幸せを祈っております。

<長女の近況や生活について>近況や生活については、本人の希望もあり、お答えは控えます。

<結びに>長女の眞子が結婚してからも、親しみを込めて懐かしく長女について話される方々が何人もいらっしゃいました。

例えば、離任するパラグアイ大使やブラジル大使にお目にかかった折には、それぞれから、長女が日系人とゆかりのある遠い場所にも足を運び、両国との友情を育んだ姿が今でも心に残り、これからも大切にしていきたいとのお気持ちを伺いました。

とてもうれしく思いました。

今は直接会うことが叶いませんが、庭の花の世話をしながら、木香薔薇のアーチを作り、いつか娘と一緒にゆっくり庭を歩くことができましたら、と思っております。

d1021.hatenadiary.jp

#天皇家

ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、現地に進出する日本企業の20%余りが事業から撤退したり、全面的に停止したりしていることがJETRO日本貿易振興機構の調査でわかりました。

この調査は、ロシアによるウクライナ侵攻から半年余りたった先月下旬にJETROがロシアに進出する日本企業、202社を対象に行い、107社から回答を得ました。

それによりますと、現地の事業について、「撤退した・撤退を決めた」と答えた企業の割合が4.7%、「事業を全面的に停止している」が17.8%となりました。

この2つを合わせた割合は全体の22.5%とことし3月下旬の調査の6.2%から大幅に増えて、企業のロシア離れが進んでいることがわかりました。

撤退の理由としては、「物流の混乱や停滞」、企業の信用やイメージが損なわれる「レピュテーションリスク」が多かったということです。

一方で、「事業の一部停止」は31.8%、「通常どおり」は45.8%となっていて、これまでの投資などを踏まえると撤退を選択することが難しい企業も多いとみられます。

調査結果についてJETROは、「事態が長期化するほど企業は『様子見』の状態を続けられなくなり、事業から撤退するケースが増えるのではないか」としています。

#反ロシア#対中露戦

中国が海洋進出を強めるなか、アメリカの研究機関が「海上民兵」が乗っている可能性があると特定した中国漁船の一部が、東シナ海でも活動し、沖縄県尖閣諸島周辺の海域を航行していたことがNHKの分析でわかりました。中国漁船に実際、「海上民兵」が乗っていたかどうかは分かりませんが、海上保安庁も漁船の動きを把握していて、活動を注視しています。

10年前の9月11日、日本政府が尖閣諸島を国有化して以降、周辺の海域では、中国当局の船が、領海侵入や日本漁船への接近を繰り返しています。

こうした中、アメリカのシンクタンクCSIS戦略国際問題研究所が注目するのが、軍事的な訓練を受けた「海上民兵」と呼ばれる人員が乗り組む中国の大型漁船です。

これらの漁船は、通常の漁業活動に加えて、海域に居座る示威活動や偵察・監視などを担っているとされています。

南シナ海では、中国と領有権をめぐって対立するフィリピン政府が、自国の排他的経済水域とする海域で、去年3月、200隻を超える中国漁船が停泊し続け、アメリ国務省は、漁船に「海上民兵」が乗り組んでいるという見方を示していました。

この際、中国外務省の報道官は、「中国側の漁船の作業は合法だ」などと正当性を主張したうえで、「中国の漁民をいわゆる『海上民兵』と呼ぶ理由がわからない。下心と悪意がある」と反発していました。

今回、NHKでは、CSISが中国側の公開情報などをもとに、南シナ海で活動し、「海上民兵」が乗っている可能性があると特定した漁船、122隻について、船の位置情報を発信するAIS=船舶自動識別装置のデータをもとに分析しました。

その結果、去年1年間でこのうちの10隻余りが、尖閣諸島から200キロ以内の東シナ海でも活動していたことがわかりました。

中には尖閣諸島の領海や接続水域を航行した船も確認できました。

中国漁船に実際、「海上民兵」が乗っていたかどうかは分かりませんが、海上保安庁も、こうした東シナ海での動きを把握していて、その活動を注視しています。

CSISのグレゴリー・ポーリング上級研究員は、「海上民兵を活用し、平時から圧力をかけ続けることで、監視・警戒する海上保安庁に負荷をかけている」と分析しています。

アメリカのシンクタンクCSIS戦略国際問題研究所によりますと「海上民兵」は軽武装をしているほか、特別な訓練を受けたり、中央政府から燃料代や船の改修のための補助金が支給されたりしているということです。

表向き漁業をしていますが、国の政治的や軍事的な目的を達成するためにさまざまな活動をするとされています。

CSISは去年11月に発表した報告書で、中国側の公開情報などをもとに広東省海南省を母港とし、南シナ海で活動する合わせて122隻の漁船を、海上民兵の船として特定し、それらの船のリストを公表しています。

CSISの分析では、これらの漁船は領有権を争う海域などに大量に出航して居座る示威活動のほか、体当たりなどの妨害、監視や偵察の活動を担っているということです。

海上保安庁などによりますと、中国政府は「民兵」については、法律などで武装力として位置づけていますが、「海上民兵」については公式な見解を示していないということです。

アメリカのCSIS戦略国際問題研究所は、中国漁船の動きが領有権争いが続く南シナ海で、近年、活発となっていると指摘します。

CSISによりますと、中国は、南シナ海南沙諸島、英語名・スプラトリー諸島で、2016年に人工島を建設して以降、平時の活動を通して実効支配を進める動きを強め、「海上民兵」の漁船を積極的に活用しているとしています。

アメリカ海軍の司令官は、2016年5月、中国が造成する人工島の周辺などにアメリカ軍の艦艇を派遣した際、艦艇が海上民兵が乗り組む船に取り囲まれるケースが相次いだことを明らかにしました。

最近では、去年3月、中国と領有権をめぐって対立するフィリピン政府が、自国の排他的経済水域とする南シナ海の海域で、中国の漁船およそ220隻が停泊しているのが確認され、一部の漁船はおよそ2か月もとどまり続けました。

フィリピン政府やアメリカの国務省は、これらの漁船に「海上民兵」が乗り組んでいるという見方を示していました。

この際、中国外務省の報道官は「中国側の漁船の作業は合法だ」などと述べ、正当性を主張したうえで、「中国の漁民をいわゆる『海上民兵』と呼ぶ理由がわからない。下心と悪意がある」などと反発していました。

CSISが「海上民兵」が乗っている可能性があると特定した漁船122隻は、去年1年間、どのような動きをしていたのか。

まず、多くの漁船が、中国がフィリピンやベトナムなどと領有権を争う南シナ海を航行しています。

しかし、7月末以降、南シナ海から東シナ海に向かって行く複数の漁船が確認できます。

日本が主張するEEZ排他的経済水域の付近を航行し、一時とどまるなどして、再び、南シナ海の方向へ戻っていました。
さらに、詳しく見ると、少なくとも1隻は、尖閣諸島の領海や接続水域に入り、航行していることが確認できました。(※航跡を地図上の赤い点で示しています)

この船は、南西から北東に移動し、尖閣諸島の領海や接続水域を通過。

その後、今度は北東から南西に向かって再び尖閣諸島付近を航行し、南シナ海に戻っていました。

去年1年間で確認されたこれらの漁船は10隻余りで、CSISのポーリング上級研究員によりますと、海南島の三亜市から出港した船が多く、より訓練を受けた漁船とみられると指摘しています。

アメリカのシンクタンクCSIS戦略国際問題研究所のグレゴリー・ポーリング上級研究員は、今回、東シナ海で確認された漁船について、何らかの移動のため航行していたか、軍やほかの海上民兵との共同訓練に参加していた可能性もあると指摘したうえで、活動や意図についてさらなる分析が必要だとしています。

ポーリング上級研究員は、「中国側としては、海上民兵を活用し、平時から圧力をかけ続けることで、監視、警戒する海上保安庁に負荷をかけている」と分析しています。

その上で、「中国の目標は、尖閣諸島周辺と南シナ海全体を実効支配することだ。軍事力には及ばない海警局の船と民兵船を利用し続け、南シナ海と同じように尖閣諸島周辺もゆっくりと、着実に支配を強めていることに対して、日本側としてどう対応していくか考えなくてはならない」と指摘しました。

また、中国の海洋政策を研究している筑波大学の毛利亜樹助教は「尖閣諸島をめぐっての緊張は、国力を増大させてきた中国とアメリカの優位をめぐる競争という大きな対立構造の一部だ。中国の挑戦を直視しつつ、複合的な対応をしていく冷静さと視野の広さが日本には必要だ。軍事衝突へのきっかけを日本側から作ることは大きな失敗だ。現場海域では海上保安庁がいまやっているように中国を静かに押し返しつつ、外交で国際社会を味方につける対応に尽きる」と指摘しています。

#反中国#対中露戦#習近平伏魔殿体制=旧体制

d1021.hatenadiary.jp

#外交・安全保障

#ロン・ポール

イギリスでは、9月8日に死去したエリザベス女王を追悼しようと、この週末も大勢の人が女王が亡くなったスコットランドのバルモラル城やロンドンのバッキンガム宮殿を訪れています。

こうした中、イギリス王室は10日、エリザベス女王国葬が9月19日の午前11時、日本時間の午後7時から、ロンドンのウェストミンスター寺院で行われると発表しました。

女王のひつぎは11日にバルモラル城を出て、同じスコットランドエディンバラにある大聖堂に安置されたあと、13日にロンドンに戻ります。

その後、14日に国会議事堂の建物で最も歴史が古いとされるウェストミンスターホールに安置され、4日間一般の人たちの弔問が受け付けられます。

そして19日、歴代の国王や女王の戴冠式(たいかんしき)が行われてきたウェストミンスター寺院国葬が執り行われるということです。

国葬が行われる19日はイギリスで「バンクホリデー」と呼ばれる休日になることも決まり、イギリスではエリザベス女王の追悼が続いています。

エリザベス女王の死去を受けて、チャールズ国王の長男のウィリアム皇太子は10日、皇太子として初めてとなる声明を発表しました。

この中でウィリアム皇太子は、エリザベス女王の死去について「彼女がいなくなってしまったことを悲しむと同時に、この上ない感謝の念を感じています。私の人生において、最も幸せだった時も、逆に最も深い悲しみの中にいた時も、彼女はそばにいてくれました。いつかこの日が来ることは分かっていましたが、祖母がいない現実を実感するまでには、もうしばらく時間がかかるでしょう」として女王の死を悼みました。

そのうえで、エリザベス女王が生前「私たちがもらった愛の代償が悲しみだ」と話していたことに触れ「今後、数週間に私たちが感じるすべての悲しみは、たぐいまれな女王に対する私たちの愛のあかしです」としています。

そして「私にできるあらゆる方法で父である国王を支えることで女王をたたえたい」として、皇太子としての決意を表明しました。

エリザベス女王が亡くなったスコットランドのバルモラル城の門の前には10日、花束を手にした人たちが次々と訪れて、女王への感謝を伝えていました。

門の前には、スコットランド北部やイングランドなど遠方からバスなどで駆けつけた数百人が長い列を作って、次々と花束やメッセージを置いていました。

このうち、ロンドンから妻と子ども2人とともに車で9時間半かけて訪れたという男性は「女王が行ったことのすべてに感謝をしています。国のために尽くすという情熱や謙虚さは、私たちにとって偉大なお手本でした」と話していました。

女王のひつぎは、11日の朝、バルモラル城を出てスコットランドの中心都市エディンバラに向かうということです。

そして12日には、エディンバラの大聖堂に安置され、一般の人の弔問が受け付けられるということです。

国葬が行われるロンドンには13日に向かうということです。

ロンドンのバッキンガム宮殿前には、市民によってエリザベス女王を追悼するため2日間で大量の花が手向けられたことから、王室は隣の公園に特別な区画を設けて花を移したうえで、今後はこの区画に花を手向けてほしいと呼びかけています。

特別な区画が設けられたのは、バッキンガム宮殿に隣接する公園「グリーン・パーク」で、10日、多くの市民が訪れました。

芝生の上にはバラやひまわりなどの花束がずらりと並び、木の周りには幹を何重にも取り囲むように花が手向けられていました。

そのかたわらには、女王に宛てた手紙を書く親子や、お互いの肩を抱いて涙に暮れる夫婦の姿などが見られました。

ロンドン市内から家族5人で訪れた男性は「女王はイギリスだけでなく、世界の礎だったし、家族のように思っていました。愛する夫、フィリップ殿下のそばで休んでほしいです」と、涙ながらに話していました。

車いすで訪れた90歳の女性は「6歳年上の女王とは、一緒に育ってきたように感じているし、これまでしてくれたことすべてに『ありがとう』と言いたいです。私にとってチャールズ国王は5人目の君主ですが、国民に愛された女王のようになってほしいです」と話していました。

www.youtube.com

チャールズ3世即位、近衛兵雄叫びの謎

ja.wikipedia.org

www.youtube.com

早慶戦2011年秋 校旗入場 校歌 エール交換

d1021.hatenadiary.jp

慶應大学慶援指導部・初の女性でエール交換の指揮を務める大役 2020早慶戦応援団ドキュメント・選手も団員も涙・最後のフレーフレー

首都ロンドンのセントジェームズ宮殿で行われた「王位継承評議会」で10日、即位が宣言されたチャールズ国王は、車でゆっくりとバッキンガム宮殿に戻りました。

沿道で待ち受けた市民からは大きな歓声が上がり、チャールズ国王は窓を半分下ろし、笑顔で手を振って祝福に応えていました。

チャールズ国王は、前日の9日には女王を追悼するため宮殿前に集まった市民と握手やことばを交わしたり、手やほおに口づけをされたりするなど、「開かれた王室」を実践した母親のエリザベス女王にならうかのような姿を見せています。

チャールズ国王への王位継承の宣言は10日、ロンドンの金融街、シティーの中心部にある王立取引所の前でも行われました。

会場周辺には、宣言の様子を一目見ようと1000人ほどの人が集まり、音楽隊による演奏のあと、王室の儀式などをつかさどる紋章官によって王位継承の宣言が行われました。

そして、音楽隊の演奏に合わせて、国歌の斉唱が行われ、これまで「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」と歌われていた歌詞は君主が国王に代わったことを受け「ゴッド・セーブ・ザ・キング」と歌われていました。

9歳の娘と参加した40代の男性は「華やかな式典に参加できてうれしいです。国歌が歌われましたが、みんながこれほど心を動かされていることに驚きました。とても前向きな気持ちです」と話していました。

ティーで働いている40代の女性は「歴史上、女王は少ないので、エリザベス女王がいたことはとても幸運でした。こうして国民の前で新しい国王への宣言が行われるのも国民に敬意を示していてよいことだと思います」と話していました。

今月8日に死去したイギリスのエリザベス女王のひつぎは、これまで北部スコットランドバルモラル城に安置されてきましたが、11日朝、バルモラル城の門からひつぎを乗せた車がスコットランドの中心都市、エディンバラに向けて出発しました。

ひつぎはイギリスを構成するイングランドスコットランドなど各地方を表す紋章からなるイギリス王室の旗「ロイヤル・スタンダード」に包まれ、その上には生前、女王が好きだったという花で編まれた花輪が手向けられていました。

バルモラル城の近くにある教会の沿道には、女王に別れを告げようと早朝から大勢の市民が集まっていて、ひつぎを乗せた車がゆっくりと通り過ぎると静かに見守っていました。

ひつぎはエディンバラに到着したあと、翌12日にセントジャイルズ大聖堂に移される予定で、チャールズ国王をはじめ王室のメンバーが迎えます。

そして12日午後には一般の人たちが弔問に訪れます。

その後、女王のひつぎは13日にイギリスの空軍機でエディンバラからロンドンに運ばれ、14日からは国会議事堂の建物で最も歴史が古いとされるウェストミンスターホールに安置され、19日の国葬まで一般の人たちが弔問できるようになります。

ロンドン郊外のウィンザー城で10日、エリザベス女王の孫に当たるウィリアム皇太子とハリー王子の兄弟が、それぞれの妻、キャサリン妃とメーガン妃とともに大勢の市民の前に姿を見せました。

黒い服に身を包んだ4人は、エリザベス女王の死を悼んで手向けられた花束などの前で立ち止まったあと、集まった人々のもとに向かい、握手しながら追悼への感謝のことばを述べていました。

ウィリアム皇太子とイギリス王室の公務から退いたハリー王子の間には、これまで確執もあると伝えられていました。

公共放送BBCは、王室関係者の話として「一緒に外に出るよう呼びかけたのはウィリアム皇太子だった」としています。

またBBCは「ハリー王子夫妻が先週イギリスに帰ったときは予想もできなかった光景だ。愛する人を失うことで立場の違いを忘れ、団結することもある」とも伝えています。

d1021.hatenadiary.jp

#イギリス

ウクライナの治安機関は10日、東部ドンバス地域の最前線に展開するロシア軍部隊への補給路となっているハルキウ州クピヤンシクをウクライナの部隊が奪還したことを明らかにしました。

これに続いて、イエルマク大統領府長官は10日、さらに南へ60キロほど離れたイジューム郊外にいるウクライナ軍部隊の写真をSNSに投稿しました。

ハルキウ州にあるイジュームは、ロシア軍が東部ドンバス地域に部隊を展開するうえで補給などの重要な拠点になっています。

そのイジューム周辺に展開するロシア軍について、ロシア国防省は10日、ドネツク方面への作戦強化のために部隊の再配置を決めた」と発表し、事実上、イジュームからの撤退を表明したものとみられます。

また、イジュームの親ロシア派の幹部もウクライナ軍による砲撃を受け非常に厳しい状況にある」としたうえで、動画を通じて、避難を名目に、地元の住民をロシア領へ移す考えを示しました。

ウクライナ軍がイジュームを奪還すれば、東部ドンバス地域の広い範囲に部隊を展開させるロシア軍にとって大きな打撃になるものとみられます。

ウクライナ軍は欧米諸国から供与された兵器などを使って、ロシア軍が支配する地域の奪還に向けて8月下旬からヘルソン州など南部で、9月に入ってからはハルキウ州など東部でも反転攻勢に乗り出していて、領土奪還に向けた反撃を強めています。

ウクライナの治安機関は10日、東部ドンバス地域の最前線に展開するロシア軍部隊への補給路となっているハルキウクピヤンシクウクライナの部隊が奪還したことを明らかにしました。

これに続いて、イエルマク大統領府長官は10日、さらに南へ60キロほど離れたイジューム郊外にいるウクライナ軍部隊の写真をSNSに投稿しました。

ハルキウ州にあるイジュームは、ロシア軍が東部ドンバス地域に部隊を展開するうえで補給などの重要な拠点になっています。

そのイジューム周辺に展開するロシア軍について、ロシア国防省は10日ドネツク方面への作戦強化のために部隊の再配置を決めた」と発表し、事実上、イジュームからの撤退を表明したものとみられます。

ウクライナ軍がイジュームを奪還すれば、東部ドンバス地域の広い範囲に部隊を展開させるロシア軍にとって大きな打撃になるものとみられます。

ウクライナのゼレンスキー大統領は10日に公開した動画で、イジュームについて言及しなかったものの「9月はじめからのウクライナ軍の攻勢により、およそ2000平方キロメートルのわれわれの領土が解放された」としたうえで「東部ドネツク州はいずれ全域が解放される」と述べ、反転攻勢を続けることを強調しました。

ウクライナ軍の部隊は、東部ハルキウ州で大規模な反転攻勢を続け、ウクライナの治安機関は10日、東部ドンバス地域の最前線に展開するロシア軍部隊にとって補給路となっているクピヤンシクを奪還したと発表しました。

そして、南へ60キロほど離れた重要拠点イジュームにもウクライナ軍は迫っているとみられます。

こうした中、ロシア国防省は10日イジューム周辺に展開するロシア軍について「ドネツク方面への作戦強化のために部隊の再配置を決めた」と発表し、イジュームからの撤退を事実上、表明したと受け止められています。

アメリカのシンクタンク「戦争研究所」は10日、イジュームについてウクライナ軍が48時間以内に奪還する可能性が高く、イジュームを解放すれば、3月に首都キーウでの戦いに勝利して以来、最も重要な功績になるだろう」と指摘しています。

一方で、イギリス国防省は11日「過去24時間、ウクライナ軍はハルキウ州で大幅な前進を続けている。ロシア軍がこの地域から部隊を撤退させた可能性は高いが、戦略的に重要なクピヤンシクとイジュームの周辺では、戦闘が続いている」と指摘しました。

ウクライナ軍がイジュームを奪還すれば、東部ドンバス地域の広い範囲に部隊を展開させるロシア軍にとって、補給などの重要な拠点を失うことになり大きな打撃になるものとみられ、戦闘の行方が注目されています。

ウクライナ東部ハルキウ州にあるイジュームは、州都ハルキウと東部ドネツク州を結ぶ幹線道路が通る交通の要衝として知られています。

ロシアによる侵攻が始まる前は人口はおよそ4万6000の機械工業などが盛んな街でした。

軍事侵攻の直後からロシア軍は攻撃を繰り返し、ロシア国防省は侵攻から1か月となった3月24日に、イジュームを掌握したと発表しました。

ロシア軍はその後、イジュームを拠点に南下し、ロシアが完全掌握を目指す東部ドンバス地域への部隊の展開や補給で重要な拠点となってきました。

また、ロシア軍の制服組トップのゲラシモフ参謀総長が、戦況を挽回するためにことし4月、イジュームにあるロシア軍の拠点を極秘に訪れたとアメリカなどのメディアが伝えています。

これに対して、ウクライナ側は今月に入って、ハルキウ州で大規模な反転攻勢を続け、イジュームに向けても部隊を進めていました。

ウクライナ原子力発電公社エネルゴアトムは11日、相次ぐ砲撃で送電線などが損傷し外部電源を喪失した状態のザポリージャ原発について、10日夜、送電線の一部が復旧し外部から電力供給を受けることが可能になったと発表しました。

そのうえで、エネルゴアトムは、6基の原子炉のうち唯一稼働している6号機を停止させ原子炉を冷却することを決めたと発表しました。

安全な状態にするためだとしています。

また、IAEA国際原子力機関も、原発と近くの火力発電所を結ぶ送電線が復旧したことを受けて、11日朝に原子炉を停止したとウクライナ側から連絡を受けたことを明らかにしました。

6号機は、外部電源を喪失したことを受け、出力を下げたうえで運転を続け、発電所の施設内で必要な電力を供給していました。

エネルゴアトムは、砲撃が相次ぐ中、原発と外部を結ぶ送電線が再び被害に遭うリスクが高く、そうなれば原子炉の冷却などに必要な電力は非常用のディーゼル発電機で賄うことになるとしています。

このため、エネルゴアトムは「原発が危機的な状況に陥らないようロシア側の砲撃が停止され、原発が非武装化されることが必要だ」として、攻撃の停止を求めています。

#NATOexpansion

#反ロシア#対中露戦

d1021.hatenadiary.jp

blog.goo.ne.jp

今シーズン初の「まやんち」のモンブラン

「東京純豆腐(ズンドゥブ)」

「スリック」

夕食は近所の「狐狸丸」に妻と食べに行く。

 1982年に、旧・関西六大学連盟が分裂、リーグ再編により、京大をはじめ、近大、立命大、関西学院大、関西大、同志社大の6校による「関西学生野球連盟」が発足した。以来、その中で唯一の国立大である京大は、残念ながら「最下位」が半ば定位置。5位になったのは5度だけで、最高順位も2019年秋の4位。リーグ優勝はおろか、3位以上のAクラスに入った経験すらない。

 ところが、2022年の春季リーグ戦で、その図式が一変しそうになった。京大が、開幕カードで21年秋の優勝校・関大を相手に2勝して勝ち点を挙げると、さらに立命大からも02年秋以来、20年ぶりとなる勝ち点を奪い取ったのだ。

 リーグ戦最終試合となった5月24日の近大3回戦に勝てれば、初の3位になる可能性があったのだが、敗れて最終的には5位。それでも「リーグ戦5勝」は4位に入った19年秋以来、「勝ち点2」も00年と19年秋に続く3度目で、いずれも京大歴代最高記録タイにあたる。

 この大躍進を導いたのが、21年11月から京大の監督を務めている元プロ野球選手・近田怜王(32)だ。兵庫・報徳学園高時代に3度の甲子園出場を果たした本格派左腕は、08年にソフトバンクからドラフト3位指名を受けて入団。4年間のプロ生活では、打者転向も経験しながら、最終的には1軍出場を記録できず、プロの世界を去っているとはいえ、その歩んできたキャリアは、まさしく、野球界の本道でもある。

 甲子園出場など、野球界の大舞台とは縁遠い京大生を、野球界の本道を歩んできたエリートが、いかにして、闘う集団へと変革していこうとしているのか。そのキーワードは「目指すのは優勝」という、ぶれない大前提にある。

 他校のように、高校時代に甲子園で活躍した選手などがいるわけではない。そんな選手たちがいるチームと戦うのだから、簡単に勝てるわけがない。それでも、あえて京大で野球をやりたいという情熱は、野球が好きだという強い思いの裏返しでもある。

「だから、僕が一番強調しているのは、とにかく『言い訳をさせない』ことなんです。自分たちでこうしたいと決めて、こうしようと決めたことは、言い訳せず、責任を持ってちゃんとやり切りなさい、という話だけなんです」

 京大のミーティングは、実に細かい。試合のシミュレーションは、まず「何対何のゲームを理想として戦うか」という前提からスタートするのだという。

「例えば、5-4。じゃあ、その5点をどうやって取るか、その4点は、どうやって取られたか。何回にどういう点の取られ方をしているのか、というのをまず話し合います」

 選手たちが、それぞれに意見を出し合う。こんな感じで勝ちます、という流れが出て来たところで、近田が細部にわたって、疑問や問題点を指摘していく。

「節々に、抜けているところがあるんですね。点の取られ方も、四球が出て、送りバントを決められて、ヒットを打たれて1点返されました、と。それはそれで、セオリーとしてあることなんですけど、じゃあ、その1点を未然に防ぐためにどうするのか。四球はピッチャーだし、送りバントのところのシフトやそのケアはどうなのか? 何が原因で、点を取られたのか。相手の足なのか、ウチのミスなのか。何が必要かを詰めていくんです」

 その時に、どうしても『不足』しているのが、負けることが許されないようなシビアな実戦経験なのだという。

「京大生は、シミュレーションとかが好きですごくやるんです。実際の場面を言って、そこに落とし込んで想像させる。シミュレーションって、いい意味で、ちょっと誇張するということなんですね。それでもやろう、挑戦するっていうのは、そういうことなんですけどね。結局、守備隊形にしても、これは前進守備だ、これは後ろだと言うんですが、じゃあ、なんで、前進なの? 後ろなの? と言ったときに、前進したら守備範囲が狭くなって、点を取られる可能性は高くなる。じゃあ、後ろで、って言うんですけど、それって、1点取られても、まずこのアウトを取った方が、後々プラスになるから後ろなのか、それとも、どうしても点を取られたくない、これで負けが決定してしまう、向こうに勢いを渡してしまうのがイヤだからという“マイナス思考”からの後ろなのか、というところまで聞くと、結局“マイナス思考”なんですよ」

 そこに、近田の豊富な経験から出て来るエキスを注入してやるのだ。

「僕らのように、甲子園とかプロに行ったという人間の経験値として、そこは『このイニングのそこで守りに入ったら、絶対に乗り越えられへん』と。ここは絶対に守るところ、イケイケ、勢いでいくところじゃないといった、そういう方向性を示してあげるんです」

 そうすると、選手たちは聞く耳を持つ。

「自分らになかった発想で『あ、そういうことなんだ』と。結局、僕が監督になったのも自分たちが勝ちたいからなんです。でも、自分たちだけでは勝てないから僕が来ている。勝つっていうのは、そういうところだよという言葉の使い方をすると、彼らも『あ、そうだ』ってなりますね」

 そのための大前提が『優勝』なのだという。

#スポーツ

#食事#おやつ

www.youtube.com

生まれて初めてのトンカツ&かつ丼に感動

#アウトドア#交通

ja.wikipedia.org

鎌倉幕府創設者である初代将軍源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変、建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は14歳の3代将軍源実朝を擁する北条時政が握っていた。

畠山重忠秩父氏が代々継承してきた武蔵国の武士団を統率する留守所総検校職の地位にあり、その武勇と人望により頼朝の時代には常に先陣を務め、その死に際して子孫を守護するように遺言を受けた有力御家人であった。また時政の前妻の娘婿であり、梶原景時の変、比企能員の変ではいずれも北条氏側に協力していた。

武蔵国は将軍によって国司が推挙される関東御分国(将軍家知行国)の一つであり、数多の武士団が存在し、鎌倉防衛の戦略上の要地であった。この頃の武蔵国司は、時政の後妻牧の方の娘婿平賀朝雅であり、比企能員の変の翌月の建仁3年(1203年)10月、朝雅は京都守護のため上洛し、朝雅の上洛後に時政が将軍実朝の命によって武蔵国務職に任じられ、武蔵国衙の行政権を掌握していた。

元久元年(1204年)11月4日、京の平賀朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(西八条禅尼)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。その席で朝雅と重忠の嫡子重保との間で言い争いとなり、周囲の取りなしで事は収まったが、これが後に大きな争いの火種となる。翌5日、重保と共に上洛していた北条時政と後妻牧の方鍾愛の子・政範が病で急死した。そして政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。なお、『吾妻鏡』では実朝の正室を迎える使者として上洛した御家人の代表を政範1人としているが、『仲資王記』元久元年11月3日条によると時政もともに上洛していたことが確認される。

元久2年(1205年)4月11日、鎌倉に不穏な形勢ありとして御家人たちが集まりはじめ、所領の武蔵国に隠居していた稲毛入道重成が舅の時政に呼ばれ、郎党を引き連れて鎌倉へやってきた。何か起こるのではないかとの噂が流れたが、この騒ぎは静まり5月3日には大半の御家人が帰国した。

6月21日、朝雅は重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴し、牧の方はこれを重忠父子の叛意であると時政に訴えた。朝雅は牧の方の娘婿であり、重保は時政の先妻の外孫にあたる。時政が子の義時と時房に重忠討伐を相談すると、2人は重忠の忠勤を訴えて謀反など起こすがはずがないと反対したが、牧の方の兄大岡時親に「牧の方が継母だから仇をしようと思っているのだろう」と迫られ、やむなく義時は重忠討伐に同意したという。

#テレビ