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皇籍離脱の上、一時金辞退で
アメリカに行って暮らす
結婚するならこれ一択
納采の儀もなく、BBAの望むような結婚など無理

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最近の真子の勤務先並びに学業状況、学友との付き合い情報踏まえると・・
もう「異常」きたしていると判断していいと思う

「異常」が現れているから秋篠宮としても反対もできないんじゃないかな

異常な状態で結婚したらもっとオカシクなるよ

亡くなった小室の父親と同じように精神的に追いつめられてるんでしょ

八百屋お七のように色に狂って
何か事件を起こさねば良いが…

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今の状態なら精神分裂でも起こしてあの世に行ってくれたら国民は喜ぶんじゃないのか?もうそんな状態に成り下がってしまったんだよ。

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「駆け落ち婚」が最善の策。
しかし、「駆け落ち婚」は「始末すること」と同義。
だから、秋篠宮は逡巡している。

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どこからかマシンガンを入手した御眞ン子が皇室行事で乱れ撃ち
「カ・イ・カ・ン……」
皇族ほぼ全員死亡して皇室ご臨終みたいなことになるかもしれない

近い事が起こる予感

真子と小室の「俺たちに明日はない

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真面目な話、この小室問題は皇室崩壊の初めの一歩になった。

三十路女の我儘を通せば崩壊がより速くなり、逆に今から破談でしても禍根を残した。
何より皇室の堕落の元凶である美智子の正体が露見したことで皇室信者はその宗教から目が覚めた。
これは今後どう転んでも未来に向けて消せない事実。
小室を遠ざければ多少は延命できるだろうが、ここまでこじれると結果は早かれ遅かれ同じ。
英国女王の英断とは正反対の過ちを犯した日本の皇室。

「革命の初めは一人から」という言葉があるけど、日本においてそれは革命家でも思想家でもなく
逆玉の輿で皇室に入り込もうとした万年無職の小室だった。そしてもう一人の主犯が当の皇族の眞子。

日本の皇室は国民からの信頼と、無償の敬愛の上に成り立っていただけに、何とももろい夢幻だった。

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全ては上皇后が皇室に入ってマスコミが持て囃してあの女優っぷりを許容したこと。そして少しでも皇室批判したら右翼が暴力的な行動に出る。
そのことでアンタッチャブル的な存在になってしまった。そして皇族はそれに甘んじてやりたい放題になり一国民に利益供与をやってしまうまでに至ってしまった。冷静になって考えればそういうことなんだよな。皇位継承者がこの人と結婚したいとなったらその人や家族に国家的な圧力までかけて無理やり皇室に入らせて周りの家族や国民のプレッシャーから精神的な病気にさせる。この皇室制度って考えるべき時に来ているんじゃないのか?

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全部、美智子さんの人脈かい
60年前の危惧が現実化してしもうたのお

「もう一つ重大なことは、この婚約を運ばれた方々、運動に当られた方々が
全部カトリック教徒である。前の田島(道治・初代宮内庁)長官も
カトリック教徒であり、それから宇佐美(毅・第2代同)長官も
カトリック教徒であり、小泉信三氏(東宮御教育常時参与として
皇太子明仁親王の教育の責任者)もカトリック教徒であり、
それからしゅうとになられる正田英三郎氏もカトリック教徒である。
それから最高裁判所長官の田中耕太郎氏もカトリック教徒である。
カトリック教徒の一連のからくりによってこの婚約が運ばれたという
説が流布されておるが、これはいかがであるか、承わりたい」

第31回国会、菊池議員質問

美智子さん系はそうでしょうね。
宮内庁参与の五百頭真氏がクリスチャン。
天皇ではなく美智子さんのための参与という
今の皇室の実態を表している。

二重権力どころではありませんよ。
今の皇室は美智子さんに全面的に支配されてます。
雅子さんや秋篠宮の批判は全部的外れです。

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宮内庁自体がもう皇室を護る目的よりも、いろんな省庁からの出向の寄せ集めで、事なかれ主義になってるんだろうな


哀歌 Lamentations【概観】

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第121代 孝明天皇

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孝明天皇の御尊顔が明治天皇の写真似に変わっちゃったでしょ?なんでそんなことをする必要があったか?偽睦仁(明治天皇)だからですよね。

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“本物” の明治天皇

孝明天皇も睦仁親王もやんこどなき生まれの顔をしてたのに、大室寅之祐の血が入ってから天皇家だけ変わってしまった。

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#天皇家

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明治維新後の1884年明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。

最後の征夷大将軍となった第15代当主・徳川慶喜は、大政奉還の後に征夷大将軍を辞職し、一旦は兵を挙げたものの新政府に恭順し、謹慎した。さらに慶喜は隠居して、御三卿の一つ田安徳川家から徳川家達が養子に立てられ、徳川宗家の相続を許された。第16代当主となった家達は、新政府により駿河遠江・伊豆に70万石を改めて与えられて駿府(現: 静岡県静岡市葵区)に移住し、駿府の町を静岡と改名して静岡藩を立てた。明治2年(1869年)に家達は華族に列せられ、廃藩置県を経て、明治4年1871年)に東京へ再移住し、1884年明治17年)には公爵を授けられて、徳川宗家は徳川公爵家となった。その後、家達は、明治時代の終わりから昭和時代の初めに至るまで、長らく貴族院議長を務め、嫡子の第17代当主・徳川家正は、戦後、最後の貴族院議長を務めた。

2003年(平成15年)、第18代当主・徳川恒孝は、宗家の貴重な遺産を管理するため、財団法人(現: 公益財団法人)徳川記念財団を設立した。

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徳川宗家第16代当主。もとは田安徳川家第7代当主で、静岡藩初代藩主。

世間からは「十六代様」と呼ばれた。

田安家の徳川慶頼の三男

慶応2年(1866年)に将軍・家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および大奥の天璋院や御年寄・瀧山らは家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また静寛院宮、雄藩大名らが反対した結果、一橋家の徳川慶喜が第15代将軍に就任した。

明治10年(1877年)、イギリスのイートン・カレッジに留学。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。オックスフォード大学かケンブリッジ大学への進学を目指していたが、婚儀を心待ちにしていた天璋院の意向もあって、明治15年(1882年)10月に帰国した。翌11月6日に近衛泰子と結婚、明治17年1884年)に嫡男家正が誕生する。

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徳川宗家第17代当主。

徳川家達の長男

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会津松平家の分家当主

祖父:松平容保会津藩主)
父:松平恆雄(宮内大臣参議院議長)
母:松平信子佐賀藩鍋島直大四女)
妹:雍仁親王妃勢津子(秩父宮雍仁親王夫人)
妹:徳川正子(尾張徳川家第20代当主徳川義知夫人)
弟:松平次郎(早世)
妻:徳川豊子(徳川宗家第17代当主徳川家正長女
長男:松平恒忠(日本航空ロンドン支店長、日本フィンランド文化友好協会会長)
次男:徳川恒孝徳川宗家第18代当主日本郵船副社長)
孫:徳川家広
三男:松平恒和(KDDI常務)

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徳川宗家第18代当主。松平一郎の次男。

徳川宗家に養子に入るまでの姓名は松平 恒孝。

徳仁の長女愛子内親王の誕生に関わる儀式において、武家末裔の代表として、後述の前田利祐とともに鳴弦役を務める。

徳川宗家の当主として先祖の祭祀に多大な時間を割いている。1月だけでも10日が5代綱吉、24日が2代秀忠、30日が11代家斉の命日にあたるため、墓所である上野寛永寺や芝増上寺に参らなければならない。家康の命日の4月17日には、静岡市駿河区久能山東照宮へ束帯に威儀を正して出かけて行く。月遅れの5月17日に、今度は日光の東照宮で同様の祭があり、ここにも束帯で出向く。その他歴代将軍の側室など徳川宗家ゆかりの人々の墓には年末年始や盆にまとめて参る。会社勤めの傍ら、こうして月平均2-3日を先祖の供養に費やさねばならないため、その都度有給休暇を振り当て、個人的な休みを返上するなどの努力により時間をやりくりしていた。

日本郵船に勤務していた際、加賀前田家18代当主の前田利祐(のち宮内庁委嘱掌典)と、一時期本社の同じ部署で勤務していたことがあり、恒孝は「随分昔ですが、人を怒鳴ることで有名な副部長がいまして、『前田!徳川!ちょっと来い!』などと呼びつけたのは太閤様以来おれだけだ、といっていたとのことです」とこの時のことを回想している。

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徳川宗家次期当主

1997年頃、FAOベトナム支部勤務時代に11歳下のベトナム人女性と知り合い、恋仲となる。早々にこの女性との結婚を決意し、2001年に日本へ帰国。2006年頃、両親は猛反対したが意を曲げずこの女性と婚姻した。

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左から徳川宗家18代当主 徳川恒孝氏、尾張徳川家当主 徳川義崇氏、水戸徳川家当主 徳川斉正氏、徳川宗家 長男 徳川家広

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三島由紀夫は幸か不幸か天皇の「原爆投下はやむを得なかった」を知らずに果てた。知っていれば「などてすめらぎは人となりたまひしや」どころではなかっただろう。