昭和4年、田中光顕という人が「もう知っているのは私だけだから……」と語ったのが始まりでした。その話によれば、「ある時点で明治天皇に即位した睦仁を毒殺し、別人にすり替えた」というのです。田中光顕は11年間にわたって宮内大臣(天皇の私生活の補佐や、皇族の教育の責任者)を務めた人で、皇室内部の表も裏も知り尽くした人といえます。そんな人が「天皇すり替え」なんて話を何の根拠もなくいうことはちょっと考えられないですよね。この話を聞いた人が明治天皇すり替え説についての本を書き、一般にもウワサとして広まったのです。
出典元:日本人のための歴史雑学 武者ブログ
明治天皇すり替え説の論者によると、大室寅之祐のバックにいたのが長州藩でした。幕末に長州藩の精神的な指導者となった吉田松陰は「南朝正統論者」で、弟子の伊藤博文らもその影響を受けていたといわれます。長州藩出身者にすれば、大室寅之祐を天皇にすることは「師である吉田松陰の悲願」であったというわけですね。』
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幕末に偽装死した孝明天皇と睦仁親王が、以降の政体天皇を周防国田布施にいた護良親王の後裔である大室寅助(大室寅之祐)に任せて明治天皇とし、京都堀川の本圀寺内に極秘造営された堀川御所に入られた。明治、大正、昭和、平成の政体天皇とは別に、孝明天皇、睦仁親王から現在まで続く裏の皇統を称して、「京都皇統」と落合が著作物内において便宜的に呼称した。
明治天皇妃の諡号で昭憲皇太后(皇后とは呼ばれない)と呼ばれることになる人は孝明天皇の息子、睦仁の奥さんとしてお嫁にきた。幕末に大室が睦仁 にすり替わって明治天皇に成り代わったとき、伊藤・大久保・岩倉はどうしてこの女性を始末しておかなかったのか はわからない。あまりにも忙しくてそこまで手が回らなかったのだろうか。普通なら正后なら「皇后」と呼ぶべきであるが親王が死んだのだから皇太后として処 遇するしかなかった。そしてこの昭憲皇太后は表向きの妃として一生を献身的に送り、明治神宮に神として祀られるのである。したがって大正天皇の生母は昭憲 皇太后ではなく典侍・柳原愛子となる。
ちなみに田布施には秦姓の朝鮮陶工の末裔が多く、田布施および近隣出身者には大室寅之祐=明治天皇、伊藤博文、木戸幸一、山形有朋、宮本顕治、河上肇、難波八 助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣岸、鮎川義介、がいる。岸信介、佐藤栄作、安倍晋三はその後継者。鹿児島市にも田布施があり、宗教 法人「最福寺」の池口恵 観の本名は鮫島正純であり、小泉純一郎の父親は鮫島純也である。靖国神社は、1869年6月29日、田布施の出身者によって建てられた東京招魂社が始ま り。
「天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。 尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。 かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、……激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。 わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだろう。 奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。 もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。 志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。 今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。」(益田勝実『天皇史の一面』より)
現在の天皇家としては明治天皇=大室寅之祐の血筋は途切れたものの、田布施(または熊毛郡)出身の一族郎党が国の権力を握っていることに変わりはないようだ。
安倍晋三が首相を辞めない(辞められない?)その傲慢さも、彼が明治以降に日本を牛耳ってきた権力を受け継いでいるからだろう。 それに安倍晋三は統一教会と縁が深いのだからまさに朝鮮半島勢力である。
明治天皇とその取り巻きがなにせ田布施出身の朝鮮人系統なのだから、現実の政治はその流れに沿うのである。 終戦時(と開戦時)に外相だった東郷茂徳は鹿児島の朝鮮人部落出身である。 本名は朴茂徳である。 鹿児島ではあるが、田布施と同じ出自なのだ。
だから昭和天皇は終戦の大事な時期に、東郷茂徳を起用した。 東郷に外交ルートを使った終戦工作、すなわち天皇の身の保全と、天皇家の蓄財の隠蔽を命じたのである。
東郷はA級戦犯となり、服役中に病没しているが、おそらく真相を知る人間だから消されたのであろう。 先に紹介したが、終戦時の安倍源基内務大臣は熊毛郡の出身で、安倍晋太郎・晋三との結びつきは不明らしい(家紋は同じ)が、大室家とは親族だという。
安倍源基は周知のように、戦前、警察権力を一手に握った男で警視総監をやり、特高警察で君臨した。 言ってみればゲシュタポかKGBの親分のようなものだ。 権力者にとっては重要なポジションである。これもまた朝鮮人系が握っていたのだ。
さらに、鬼塚氏が指摘しているのは、終戦時の内閣では大分県出身者が多いという。
阿南惟幾陸相(竹田市出身)、梅津美治郎陸軍参謀長(中津市出身)、豊田副武海軍軍令部長(杵築市出身)、また重光葵(東久邇宮内閣外相)は国東半島出身。 大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている。 この辺りは家船漁民の活動範囲であって、その交流のなかで婚姻関係が結ばれていたはずなのである。 つまり昭和天皇は同じ朝鮮人関係者で、敗戦処理を行なったのであった。
こうして見てくると、どうして明治権力が朝鮮半島に侵出したか、しかも朝鮮半島をいわゆる植民地化せずに“内地化”して、インフラ整備を徹底的に施し、 “内鮮一致”を押し進めたかがわかる。 つまり日本が稼いだ富を祖国・朝鮮半島にせっせと注入したのだ。 また日本国内に在日朝鮮人を大量に残し、厚遇してきたかもわかる。 権力者どもにとっては同族だからだ。 わざと(ユダヤの指示で)日本国内に火種を残したとも言えるだろう。北による拉致だってわかったものではない。
総連や北の工作員だけでなく、こうした闇のルートが拉致に介在した可能性もあるし、現在も小泉や安倍という朝鮮系の人間が首相をやっているのだから、闇は深まるばかりだ。
こうして見てくると、話はやや飛ぶが、「アカシックレコード」の佐々木敏氏や、「国際情勢の分析と予測」サイトが指摘する、日本と北朝鮮は本当はかなり親しい関係にあって、ケンカしているように見せているのは表面的なことではないか、との予測は当たっているのかもしれない。 冗談に聞こえるのだが、北の金日成や金正日は、「日」の字があって、親日の意味がこもっているのだとの説もあながち荒唐無稽な話ではないのかもしれない。
神武天皇の和風諡号「神日本磐余彦天皇(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト)」は、ユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーク氏によると、これはヘブル・アラム語で「カム・ヤマトウ・イベリ・ペコ・シュメロン・マクト」と聞こえ、これは「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」を意味し、サマリアは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家のことなので、初代神武天皇の古代天皇家は古代北イスラエル王国王家エフライム族出自であり、古代大和朝廷は古代北イスラエル王国再興であることを証明している。
歴代天皇の中で桓武天皇のみ煌びやかな衣装と王冠の肖像画、桓武天皇は平安京遷都に際し、イスラエル人が一貫して行っていた「旧約聖書」の「創世記」から登場する儀式の燔祭(ハンサイ;主に羊などの動物を祭壇で灰になるまで焼いて神に捧げる儀式)を行い、更に、エルサレムはへブル語で「平安な都」の意味、つまり平安京である。
桓武天皇の時またはその前に、ダビデの血をひくユダ族の秦氏の血が天皇家に入ってイスラエルとユダの統一王家が実現したので、秦氏は古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)再興であるエルサレム城の平安京建設と、ソロモン第3神殿の伊勢神宮建設に邁進したと思われる。つまり、平安京、特に京都御所は、古代イスラエル統一王国(ソロモン王・ダビデ王)再興の証であるエルサレム城であり、伊勢神宮はソロモン第3神殿である。
「法主と新門は親子でありながら和がない。母親の智子裏方は自分の手元で育てた末っ子の暢道氏ばかりをネコっ可愛がりで、上の三人は“ままっ子”扱いだ――そんな家族の悪口を聞くことから(大塚注・光紹新門とのつきあいが)始まったんです」
團藤 ええ、どうぞ、どうぞ。私は宮内庁参与で昭和天皇にはしょっちゅうお目にかかっていたんです。昼飯なんか、よくごちそうになって。ある時は陛下の右側に僕がいて、前に三笠宮様がいらして、3人でね。三笠宮様と陛下とは話が合わないから、僕とだけ話をなさって、とても打ち解けた話をなさってね。いい方でしたよ。
#朝鮮半島
これが本物の践祚大嘗、天子の舞❗️
— 本物黒酒 (水原紫織)『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』好評発売中 (@honest_kuroki) May 13, 2019
この写真は、本物の祐宮睦仁(満14歳)が、1867年2月13日の践祚大嘗において、自ら舞っている貴重な記録写真。
researchgateにアップ下さったのは #泉田英雄 教授https://t.co/RwPf019dlA
これは19歳の写真ではないのですが、私は学者ではないので彼に連絡がとれない pic.twitter.com/ze4KGDdGpb
これは凄い‼️
— 本物黒酒 (水原紫織)『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』好評発売中 (@honest_kuroki) November 9, 2019
フランスに本部を置く国際機関OECD(経済協力開発機構)が、
“本物” の明治天皇の、断髪後の彩色写真を掲載している➡https://t.co/opZJq8ofxS (画像が左右反転かも)
じゃぁ、私たち日本人が明治天皇として知らされてきたモノクロの写真の人物はいったい誰❓😲 pic.twitter.com/dMq8dap059
肖像画を見る限り、孝明天皇も睦仁親王もやんこどなき生まれの顔をしてたのに、大室寅之祐の血が入ってから天皇家だけ変わってしまった。こういうことを書いているとキ●ガイ扱いされるけど、西郷隆盛と大久保利通が睦仁親王を京都御所から連れ出すときに、ほとんどの女官を#孝明天皇 #睦仁親王
— 三河者 (@onriedo16) April 19, 2019
これが、“本物” の明治天皇の、断髪後の彩色写真の元かも pic.twitter.com/pIIEkfw8R2
— 本物黒酒 (水原紫織)『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』好評発売中 (@honest_kuroki) November 9, 2019
「おお!行方不明の肖像画だ!これは恐らく宮内庁にあるんだ。」
正しく、ドナルド・キーンの「明治天皇」にある写真と同じ“構図”だ。
ワシはこの写真をアップにして良く目を凝らしてD・キーンの本の写真と見比べた。
「な、な、なんと、下唇が描きかえられているではないか~!」
宮内庁は“基の絵”を隠蔽(行方不明)し、菊の御紋の入った額縁に“偽孝明天皇の肖像画(五姓田画)”を填め込み、
大室天皇は孝明天皇の実子だと言い包めようとしたのだ。
同意します。ただ、もともと皇室の宗教は神道ではなく江戸時代まで仏教でした。瓦解(明治維新)の天皇すり替え以来、神道のフリをしていましたが、戦後からはキリスト教徒です。
— 安保 隆II (@AmboTakashi2) August 25, 2019
当時の新政府は、旧幕府のキリスト教禁止令を継承していました。それにイギリス公使パークスが猛抗議!怒涛の勢いで迫ってきたわけです。
このパークスとの交渉を、政府高官は嫌がりました。そんな時、英語も話せてキリスト教にも詳しい大隈に、白羽の矢があたりました。
パークスは、当時まだ無名で身分の低い大隈を小馬鹿にしていましたが、そんなパークスに大隈はこう言い放ったとされます。
「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である。」
引用元:Wikipedia
パークスは日本の若者から「国際法」「内政干渉」という言葉が出てきたことに驚きを隠せませんでした。無名の大隈が、パークスと互角に渡り合ったわけです。そして、その功績が政府内で評価されることになります。
#天皇家