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日本で政治家になりたがる弁護士は勘違いしている。

#日本の弁護士の問題

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 しかも、道徳ないし倫理は、個人をこえて、社会的なもの、すくなくとも社会心理的なものとして現れることを忘れてはならない。社会倫理といわれるのがそれである。「人倫」の「理」であるところの倫理は、和辻哲郎(1889−1960)の説によれば、人間共同態の存在根底たる道義を意味する。それは個々の人間の主体性を離れては考えられないとともに、個々の人間をこえる人間共同態に妥当するところのものである。和辻は、絶対的否定がおのれを否定して個となり、さらに個を否定して全体に還るという運動そのものが人間の主体的な存在であり、いっさいの人間共同態を可能ならしめているものは、まさにこの運動にほかならないと論じて、この間の消息を解明しようとしている

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 現代の社会は価値体系の分裂をもった多元的社会である。それは生物学的な層・経済的な層に根をおろしながら、政治的な層において表面化する。法形成ことに立法は、こうした多元的な政治的主張の対立・緊張・衝突の動的過程の中に実現される。それは対立する意見の妥協(しばしば政治的取引としての)によって実現されることもあろうが、むしろ、本質的には闘争によって実現される。法形成ことに立法の過程は、妥協よりも闘争によって特徴づけられる。しかし、かようにして形成された法は、ともかくも多元的要素を統合したものとして、拠りどころとなる。したがって、かような法を前提とするところの法実現ことに司法の過程は、立法過程に較べて対立的要素がすくなく、その意味で動的性格が弱いといえよう。しかし、抽象的な闘争過程の所産であるということは、その中に矛盾・対立する諸契機を内在させているということであり、したがって、その解釈をめぐって、ふたたび多元的社会の諸要請が当然に立ち現れるべき性格をもっていることを意味する。もともと非政治的であるべき司法過程においても、政治的要素を完全に排除することができないのは、かように奧深いところに根ざしているものと考えられる。

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日本文化全体が二重生活・三重生活になっているが、現代の日本法も同じ様相を帯びている。われわれは、これを、われわれ自身の立場から、もっと自覚的・主体的に整序し展開して、われわれのものにして行かなければならない。

#グレタ

#異論反論オブジェクション#左翼

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彼らは常に自分以外のすべてに文句を垂れるばかりで、あらゆる責任を逃れながら、あらゆる権利を手にしようとする動きのみに長けています。

#善悪二元論

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#勉強法