《眞子さま結婚延期から丸3年》秋篠宮さまに今戻ってきた「人格否定発言」痛烈批判のブーメラン #眞子さま #小室圭 #皇室 #文春オンラインhttps://t.co/XkKniA7uV0
— 文春オンライン (@bunshun_online) 2021年2月5日
小室は渡された質疑応答文を丸暗記しなくちゃ婚約内定記者会見の場にも出られなかったような馬鹿だもんなあ
通勤電車のなかで腕組みしてブツブツ暗唱してる半目のw小室が写真週刊誌に撮られてたわ
美智子の度重なる数百億円に及ぶ新築御殿建設、馬鹿げた衣装代着物代・・・
それに追従する紀子の傲慢と野心、
馬子鹿子の暴走、皇族特権乱用しつつ自由も当然の我儘、学業身に付かず文化や皇族としての責任も理解せず、
生涯税金にたかろうと皇女制度法案まで新設させようと一家で画策。
違法行為、犯罪まみれの反社ヤクザとの関わり深い男に税金垂れ流す男道楽。もう皇族が皇族ではなくなってる…
まずは秋篠なまず、DNA検査してくれ
もしも眞子と小室が結婚したら、後日途方もない皇族醜聞が発生するだろう。
小室母子の本性はプロの詐欺師。状況証拠から、国民の殆どがそう見ているようだ。
一連の結婚問題の報道で、国民は呆れてるとか、うんざりしてる人もいるが、
ミステリー小説のように、
「こんな展開になるんじゃないか?」「こういうトリックがあるんじゃないのか?」と予測する人もいる。
ずいぶんと俗っぽいな。小室側が破談した時の保険として複数の女と交際するのはわかるんだがな。
一人の女とだけでは、その女の資産や収入が低かった時に保険にならないからな。もし眞子と小室が結婚したら、直近では菊栄親睦会に小室家が乗り込んできて撃沈させると予測されている。
菊栄親睦会では、法改正や小室側に辞退を要求するなどの方法が無いわけではないが、
準会員の資格を取得する小室家に対して入会拒否は不可能に近い。後日途方もない皇族醜聞が発生してもしなくても、皇室はもう難しいだろう。
しかし小室ってのは本当に単なる眞子様の同窓生のボーイフレンドだったのかな?
ボーダー説のある内親王をナンパして、皇室と日本国民の間を引っ掻き回した挙句
法学部出でも弁護士経験もない無職男が、軽業のようにアメリカに飛んで全額奨学金獲得した特待留学。
その資金源は?コネは?判明してるのは支援者はアメリカの母とか弁護士事務所とか中国がらみの人々ばかり。
アメリカに飛んだ後は、秋篠宮家や眞子様がこれだけ日本国内で袋叩きにあっても知らん顔。
スカイプで眞子様を遠隔操作するだけで、実質批判の矢面に立たせて自分は支援者のあてがう場所であくまでもで安全圏。
地べた這いつくばってヤクザの情婦もどきやってた母親が、将来の天皇陛下の義理の叔母になるなんて
日本の皇室は見事に小室一匹によって破壊しつくされたことになる。
マコムロ連名での結婚の説明で眞子様が
皇籍離脱してから結婚します、
一時金は辞退するか支給されてもコロナ対策の機関に寄付します
とか言ったらどうなるかな一時金を辞退したところで
眞子様がいる限り皇室特権垂れ流しだから
眞子様も小室も困らないだからこそ反対な人が多いんだけど
中には税金使わなければOK、皇籍離脱してからならOKという人達もいる
そうなると結婚反対派も分裂して力を失い
結婚強行されかねない
眞子姫が先に皇室離脱をしたら、圭が予定が狂ったとばかり寄り付かなくなって、
破談になるだろうね。それが困るから、二人とも遠距離でにらみ合っているよ。
「駆け落ち婚」が最善の策。
しかし、「駆け落ち婚」は「始末すること」と同義。
だから、秋篠宮は逡巡している。
金持ちで世間知らずのお嬢ばかりをたらし込んで貢がせ放題
デートの電車代すらおごらない
その内クレジットガードごと要求して相手の親に感づかれ切られた今まではお子ちゃま枠だったからこの程度だが
馬糞と結婚して周りから持ち上げられるオッサンになればどんな汚い真似をしだすか都合の悪い奴の不審死が幼いころから当然の環境だったから
こいつも同じようになるだろ
皇室・皇族全体の連帯責任だわ
主犯は美智子さん
今こそ小室を切るために
危機管理エキスパートの出番ですよ
グズグズしないで
さっさとやっておしまいなさい
#天皇家
政財界で話題の預言者・昭島レイラさんのインタビューを白神じゅりこが担当。
— 白神じゅりこ/新感覚オカルト作家/滅亡・予言研究家/ youtube『滅亡ちゃんねる』 (@julinda3) 2021年2月4日
「もうすぐ人工地震、五輪は無理、中国が日本侵略、徳川埋蔵金も発見…」これを読めば、今、我々がどういう意識でいれば滅亡を乗り越えられるかがわかります。https://t.co/h2XxAjYMDx
#坂本龍馬#明治維新
#気象・災害
#反中国#対中露戦#習近平伏魔殿体制=旧体制
「宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死の問題を越え、与えられた責務を果し、正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす」
— 山岡鉄舟 (@yamaokatesshu) February 6, 2021
ヨハネが目撃した神の愛 高原剛一郎
それ多くの子を光榮に導くに、その救の君を苦難によりて全うし給ふは、萬の物の歸するところ、萬の物を造りたまふ所の者に相應しき事なり。
なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。
「『人として生まれてきて本当によかったなあ』『人間として造られてよかったなあ』『生まれてきてよかったなあ』と胸を張って言えるような人生」
「この世界が完全にリニューアルされた時に、その世界を統治する者として、人間というのは造られた」
「永遠に快復された世界で、神と共に統治者となるために造られた」
「聖書が語ってる人間の使命」
「一番最初の人から躓いた」
#アダム#罪=本来の目的から外れること=作者から見たら痛恨の出来事
#出題趣旨と答案
その頃東洋の先哲とか、その書など、今も大して変りはないが、要するに前世紀の遺物のやうに見なして、若い学生達はほとんど顧みる者もなかつた。私が漢籍などを読んでゐると、異端といふより、むしろ奇物変人視されたものである。それでも私は意としなかつた。「かつて極めて少数の者にしか通じさうもない学問を、何のためにさう熱心に没頭するのかと問はれて、私はかう答へた。私には少数で十分だ。一人でも十分だ。一人もゐなくても十分だと」。「至善は外界からの手を求めない。内部から培はれ、それ自体から出でて全きものである」と、これはセネカの教へであるが、私もさう信じた。陽明も、天下悉く信じて多しとなさず。一人これを信ずるのみにして少しとなさずと説いている。この書はかういう心境で学問に没頭したときの所産である。
高校を辞めたころは、多くの青年がするように、ひとは楽しくもない人生を何のために生きるのかということをよく考えた。自分の人生の難問に取り組むことなくしては、実用的な学問を修めて世の中を渡っていくのは無意味だと思ったので、大学に行きたいと思い直したときから、人文的なことが学べる学部に行こうと心が決まっていた。計画どおりにならない人生だから、天の導きにまかせて学びたいと思うことを学ぶのがよいと思う。なおずっと後になって気づいたことだが、本をちゃんと読めるようになるには本の読み方を学ぶ必要があり、それを体にしみこむほど教えてくれた文学部の学問は、意外にも実用的であった。
十年ほどかかって、パズルでも解くように、自分の研究人生がおのずと形をなしてきた過程であった。今でもインドの山奥で石ころだらけの斜面を耕して生きる人々に会っては、民話など言語資料の収集と分析を続けている。いわゆるフィールドワークだが、自分にとってはつまるところ「なぜ生きるのか」という高校時代からの問いへの答えを求める旅である。
東洋では古来、学問とは次のようなことだとされてきた。
「それ、学は通の為には非ざるなり。窮して困しまず、憂へて意衰へざるが為なり。禍福終始を知りて惑はざるが為なり」筍子。通とは、立身出世いうほどの意味である。
日本でも明治以前は人格の培養と錬成が学問の目的であった。
明治以降、日本では高等教育機関は、分析的、分業的、専門的知識の伝習の場となった。
専門化、末梢化すればする程、それは人間としてのあるべき姿の根本から遠いものとなる恐れがある。分析的、概説的知識のみでは薄っぺらな人間味のない技術者や知識人を作ってしまう。
学問は早年より中年に進むに随って、修徳の学(心に道徳性を修める学問)に時務の学(時々の問題について身につけなければならない学問)を加えくるべきものであって、みだりに本末先後を謬(あやま)ってはならない。
宇宙人生は天の自慊(じけん)的創造である。自己を実現しつつある努力である。
この絶対自慊にして、何等他に俟つ所を求めない生々化育の努力を「誠」と謂う。
誠は天の道である。誠に由(よ)って萬物があり、誠がなければ物もない。人は、此の誠に由って生き、禽獣と異なって自覚を生じ、誠の誠なる所以を体認して之を発揮するようになる。
これを「誠之(せいし)」といい、所当然の道とも謂う。
然し我々は次第に天地人間から分隔して(これも実は偉大な創造分化なのであるが)己私に執着して誠に叛(そむ)き易い。その為に折角の性を傷(そこな)って天と断つの不明に陥った。
そこに諸々の悪が蔓(はびこ)る。「唯天下の至誠のみ能く性を尽くすことを為す」である。
論語の中で、自分に自信を持てない冉求(ぜんきゅう)という青年を孔子が諭される話の最後に「汝(なんじ)画(かぎ)れり」という言葉がありました。孔子は「お前は自分で自分を見限っている。天はお前の良さも悪さも分かったうえで、お前という素材を使いながら何かをしようとされているのに、お前が自分を見限って殻に閉じ籠もったとしたら、天はみすみすチャンスを失ってしまうのではないか。もう一度考え直せ」とおっしゃるんですよね。
ですから、いま私たちの前にある大きな問題は、「どのような種類の人に、神はご自身をお委ねになるのか?」という問題です。
「神が人として来られた」という神のご計画を人は理解しようとしないからです。