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「実は28年前の’93年、雅子さまのご成婚直前にあった“金箔タンス事件”に、森会長が深く関わっていたといわれているのです」

金箔タンス事件の顛末はこうだ。

天皇陛下(当時は皇太子)とのご婚約内定後、雅子さまの実家・小和田家は石川県の家具店に桐タンス2棹を注文。しかし、できあがったのはなんと全面に金箔がびっしりと貼られたタンスで、しかも注文より多い3棹だった。

当時の記事によれば、金箔タンスは次のようなものだったという。

《三カ月がかりで制作したたんすは、間口百二十一センチ、奥行き四十六・五センチ、高さ百七十六センチ。会津若松産の本柾目(まさめ)の高級桐で作ったたんすに、純度九八%の金沢金箔を二重、ところによって三重に張りめぐらしてある。金箔は十五センチ四方のものが約千六百枚》(『北國新聞』’93年6月1日朝刊)

家具店は金沢市で記者を集めて金箔タンスのお披露目会まで開き、その様子がワイドショーでも取り上げられたのだが……。小和田家の知人が当時を振り返って語る。

「注文した桐タンスに金箔が施されているということは、小和田家の方々も報道で初めて知り、たいへん驚かれたそうです。小和田家は、ごく普通の桐タンスを注文されたのですが……。このようなタンスはお受け取りできないと、すぐさま家具店に断りの電話を入れたといいます」

家具店は《善意により独断で作らせていただきました》《小和田家をはじめ、関係各位に大変ご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます》との謝罪文も発表。「1棹1千万円」ともいわれていたが《一部で報道されているような高価なものではありません》と釈明した。

だが、この家具店はなぜ小和田家に無断で金箔タンスを作ったのだろうか? 前出の小和田家の知人も、こんな疑問を抱いたという。

「もともとは知人の紹介とのことでしたが、どうして金沢の業者に発注することになったのか……。桐タンスなら新潟や会津のほうが有名な産地です。雅子さまの父・小和田恒さんは新潟県出身ですから、不思議に思いました

金箔タンス製作を推し進めた強力な仲介者がいるといわれていました。それが、石川県選出の代議士だった森会長だというのです。小和田恒さんは、かつて故・福田赳夫元首相の秘書官を務めていました。そのとき官房副長官を務めていたのが森会長だったため、小和田家と森会長はそのころから親交がありました。金箔タンス納入の陰には森センセイの存在があった……。当時、外務省内や国会議員の間では周知の事実として語られていました」

ただ、森会長は当時、週刊誌の直撃に対して、金箔タンスの一件は「新聞で見ただけだよ」と関与を否定。家具店への仲介をしたのではないか? との質問にも「知らないねえ……」と答えるのみだった。

このような騒動があったにもかかわらず、小和田家は注文したとおりの品をと、再度同じ家具店に桐タンスを発注。2カ月遅れで東宮仮御所(当時)の雅子さまのもとへ届けられたという。小和田家がことを荒立てなかったために騒動はすぐに収束し、真相が明らかになることはなかった。

「当事者が認めていないため、断定はできませんが……。よかれと思ってやったことが大騒動になってしまったわけで、いかにも森会長が起こしそうなエピソードだと思います」(前出・政治部記者)


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自民党の公認は既に満杯だった。自民前職2人(坂田英一と井村重雄)が健康上の理由で出馬を断念したが、別川悠紀夫と奥田敬和が新たに公認を受け、森は公認を得られなかったため、保守系無所属で出馬することになった。

出馬に際し、森は今松の秘書を務めていた縁から、岸信介元首相による応援を岸の秘書である中村長芳を通じて要請。岸は森の要請を快諾し、はるばる石川まで応援に駆けつけた。60年安保闘争(森は「安保騒動」と呼ぶ)による悪影響を懸念する声もあった。森の親族も父と同じく出馬に反対の意見が大勢であったが、選挙直前の一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の北陸地方は仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。また、根上町内の森町長への信頼感と森を認めてこなかった既存の自民党組織・地方議員や奥田などへの反発から、町内では住民総出で選挙運動に協力する雰囲気となり、昼は老人と子供しか残っていないという有様であった。加えて、岸の応援で地元での人気が上昇し、下馬評を覆してトップ当選した。森は、無名の泡沫候補に過ぎない自分の応援のためにわざわざ駆けつけた岸に対し、終生恩義を忘れない姿勢を示しており、後年岸の外孫である安倍晋三が首相に就任した際は、後見人として安倍を支えることになる。

「一般家庭ではまったく現実的ではないと感じることでも、皇室という環境は、一般の現実とはかけ離れたところにあることは否めません。小室さんの浮き世離れした感覚が、たまたま眞子さまに夢見心地を演出したのではないでしょうか」(皇室関係者)

 その夢は、恋人の母親と親しく接することでも、より鮮やかに色彩を帯びていく。

「小室さんは早い段階で、眞子さまを母の佳代さんに紹介していたそうです。小室家のある横浜で頻繁にデートをしていたそうですから。交際当時から、眞子さまがわざわざ佳代さんがパート勤務をする洋菓子店にケーキを買いに行かれたこともあったそうです」(皇室記者)

 眞子さまの目に佳代さんは“将来の義母”として好ましく映ったようだ。

「いまも眞子さまは佳代さんとメールなどで頻繁に連絡を取り合うなど、かなり親しい関係を築かれているようです」(前出・宮内庁関係者)

 佳代さんは小室さんを“王子”“バイオリンの天才”と呼ぶなど、目の中に入れても痛くない育て方をしてきた。

「皇族として立派に務めを果たせるようにと育てられた眞子さまにとっては、そうした母子関係も新鮮に映ったのでしょう。佳代さんから眞子さまへの語りかけも、眞子さまが気持ちを固める要因の1つだったのではないでしょうか」(前出・皇室関係者)

 そうした婚家からのアプローチに加え、眞子さまには生家からの“教え”もあった。

秋篠宮さまは学生時代に出会われた紀子さまと、紀子さまが大学院在学中に婚約されています。眞子さまはご自身も、ご両親のようにありたいと考えてこられたはずです。皇族ですから、学生のうちでないと異性との出会いも少ないという事情も、眞子さまを焦らせたのかもしれません。秋篠宮さまも以前、“結婚相手は学生のうちに見つける方がいい”といった発言をされたこともあったそうです」(前出・宮内庁関係者)

 報じられる前から、キャンパスでは公然の秘密だったという眞子さまの恋。

「ペアリングをし、『まーちゃん』『けーくん』と呼び合う仲で、キャンパスが暗くなってからもベンチに腰掛け、長い時間を過ごしていた様子もよく見られていたようです」(前出・皇室記者)

 交際が始まった頃、小室さんは連絡用のメールアドレスを変えた。眞子さまを呼ぶ愛称やお互いの誕生日が組み合わされた文字列だったという。小室さんはプロポーズの約半年後の2014年7月、メガバンクに入行した。

「新人は長期にわたって宿泊を伴う研修を受けます。小室さんには毎朝、モーニングコールがかかってきていたそうです。いま思えば、眞子さまだったのでしょうね」(当時の小室さんを知る人物)

 この時期、小室さんはたびたび秋篠宮邸を訪れ、眞子さまの部屋で過ごすこともあったという。眞子さまは2014年9月から1年間、再びイギリスに留学された。

眞子さまの留学先に、日本から小室さんが駆けつけたのです。5月の連休を利用してのことだったそうです。国外での久しぶりの逢瀬は、距離をぐっと近づけるものになったでしょう。ただ、留学先で会われていることを、美智子さまはご存じなかったそうで、報道で知られて驚かれていたそうです」(前出・皇室記者)

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カップルが強行結婚し
カヨが反社のおっさんと再婚でもしたらどうなるの?
馬子の義父だよね?
そのおっさんもなんちゃら会の準会員で
親睦会とやらについてくるわけ?

カヨ関連で色々なところから
色々な人間がワラワラと近づいて
馬子に近づき食い物にされそうだなぁ
おぉこわい

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#天皇家

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飛鳥時代藤原鎌足を祖とする神別氏族で、多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。

姓の代表的なものの一つとして源氏・平氏橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称され、その筆頭名門氏族である。

中臣鎌足大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の代に認められたのに始まる。鎌足が中臣氏の出身であるため、祖は中臣氏と同じく天児屋命と伝える。

奈良時代に南家・北家・式家・京家の四家に分かれ、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を称したが、鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの苗字に相当する家名を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかった。これらをあわせると特に朝廷における比率は圧倒的であり、地方に散った後裔などもふくめ、日本においては皇室(およびその流れを汲む源平など)に次いで大きな広がりと歴史を持つ家系である。江戸時代の朝廷において大臣就任の資格を持つ上位公卿17家系(摂家清華家大臣家)のうち14家系が藤原氏、残り3家系が源氏であり、徳川をはじめとした主要武家の多くも源平や藤原流を称していることを併せると、皇統と藤原氏の二つだけの血流が支配階級をほぼ独占するという世界でも稀な状態であった。

ただし全国に散らばる藤原氏同族とされる雄族の多くが、藤原氏氏神を共有せず、地方への赴任事情が不明であり、系図上でも親子関係などで疑問が残るものも存在する。これらの事情には、他の氏族の後裔が藤原氏の一族の養子・猶子となるか、先祖の系図藤原氏に無理矢理接続させたという類例が武家では非常に多いためとされる。また地方の古族(国造や県主など)で先祖が不詳になったものには、中央の権門勢家にかこつけ藤原氏一族と称したものも数多く存在したと見られ、佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤などはその多くが本来藤原氏とは無関係であったとも見られる。

藤原氏の祖である中臣鎌足は、中大兄皇子天智天皇)とともに乙巳の変から大化の改新に至る諸改革に携わった。その後功績を称えられ、死の直前に天智天皇から藤原朝臣姓を与えられたとされる。藤原の名は鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京地帯、現 橿原市)にちなむ。

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平安時代初期に書かれた『新撰姓氏録』には、皇別・諸蕃と並んで、天津神国津神の子孫を「神別」として記している(「天神地祇之冑、謂之神別」)。さらに神別は天孫」・「天神」・「地祇」に分類され、天孫109・天神265・地祇30を数える。なお、こうした区分は古くからあったらしく、これは律令制以前の姓のうち、「臣」が皇別氏族に、「連」が神別氏族に集中していることから推測されている。

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古事記では倭姫はヤマトタケル
草薙剣を渡す記述が古事記にあり、
十一代・垂仁天皇の御世に
内宮を造ったのみでなく、
二十一代・雄略天皇の御世に
外宮を造る時にも関与しています。

年代の離れた二つの神社の創建に
倭姫が関与したとされているのは、
同一人物なのか役職名なのか、
はたまた後世の捏造であったのか、
どう解釈すれば良いのでしょうか。

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血筋ではなく威霊によって皇統を紹いだもう一人の明治天皇

https://far-east-alexandria.com/post-1568/far-east-alexandria.com

子孫が死んだ権力者を祀る場所を
宗廟と呼ぶ事は儒教に由来し、
日光東照宮に家康が祭られるように
権力の根拠とされるものであり、
廟は神を祀る場所ではありません。

持統天皇天智天皇の家系に属し、
天武天皇が天下をとったはずなのに、
天智天皇の系統で皇室が占められます。

即天武后が天武の后に即すと書くのは、
両者に何らかの関係が存在したのか、
武即天の保護した三つの一神教は、
この頃に日本に入ってきています。

伊勢の内宮が宗廟と呼ばれたのは、
壬申の乱古事記日本書紀編纂に
密接に関わった存在であるこの女帝が、
ここに祀られているからなのでしょうか。

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本物の日本の皇統は、李耳(老子)の子孫を自称した唐朝の天皇(第3代皇帝)と則天武后の子孫です。つまり、李氏朝鮮よりも由緒正しい李姓と、武姓の間に生まれた天武天皇の子孫が本物の日本の皇統。

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壬申の乱に勝利した天武天皇は、天智天皇が宮を定めた近江大津宮に足を向けることなく、飛鳥の古い京に帰還した。天武天皇2年(673年)閏6月に来着した耽羅の使者に対して、8月25日に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天皇壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした。

このことは天皇が赤を重視したことからも間接的に推測されている。壬申の乱大海人皇子の軍勢は赤い旗を掲げ、赤を衣の上に付けて印とした。晩年には「朱鳥」と改元した。日本では伝統的に白くて珍しい動物を瑞祥としてきたが、天武天皇の時代とそれより二、三代の間は、赤い烏など赤も吉祥として史書に記された。赤を尊んだのは、前漢の高祖(劉邦)にならったもので、秦を倒し、項羽との天下両分の戦いを経て新王朝を開いた劉邦に、自らをなぞらえる気持ちがあったのではないかと推測される。

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斎藤福

春日局」とは朝廷から賜った称号である。

父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀重臣であった斎藤利三

父は光秀に従い、ともに本能寺の変織田信長を討つが、羽柴秀吉山崎の戦いで敗戦し帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて処刑され、他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪していたと考えられている。

寛永12年(1635年)には家光の上意で義理の曾孫の堀田正俊を養子に迎えた。

死去の直前に当たる9月10日、家光は稲葉正則の娘(3歳)と堀田正俊の婚約、正則の妹と酒井忠能の婚約を発表した。この上意は新興譜代大名である稲葉氏と堀田氏を門閥譜代大名の酒井氏と結びつける意図があった。以後正則・正俊はそれぞれ幕閣に登用され、老中・大老に就任、幕政に参加した。

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家紋学や地理的見地からすれば、堀田氏は祇園八坂神社社家(紀姓堀田氏)の流れ、つまり八坂氏と見るべきである(宝寿院 (祇園社の社家)参照)。京に残った系統と同社家分流の尾張国津島神社社家の二つの流れがあり、後者の系譜が尾張系である。

この津島神社社家に由来する堀田氏のうち、南北朝期に活動した堀田正泰の子孫の一部が武士化して津島を基盤に発展、仕えた織田氏豊臣氏の全国制覇とともに歴史の表舞台に登場していった。これが近世大名の堀田氏である。

なお、八坂氏の流れが堀田氏を名乗った理由であるが、八坂神社は秦氏祇園信仰を推進するために建立されたとする説もあり、音の類似からも、秦氏と何らかの深い関係があったと考えられている。

なお、江戸時代初期に川越藩主だった堀田正盛寛永15(1638)年に仙波東照宮を造営した際に奉納した鳥居には、「堀田加賀守従四位下藤原正盛」と刻まれており、藤原氏を称している。

京都系では、元検察官の堀田力などが有名である。

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 津島神社の祠官は紀姓堀田氏である。境内には摂社として弥五郎殿社があり、祖神武内宿禰大穴牟遅命を奉斎している。社伝によると、正平元年(1346)南朝方の忠臣堀田弥五郎正泰が創建したと伝えている。正泰は正平四年に河内四條畷において武家方と戦って戦死した。
 系図によれば、京都の八坂神社の執行職を務めた俊全の子俊重が尾張津島天王の祀宮職の始めと記されている。そしてその子重遠が堀田阿波守を称して津島天皇祠官を務め、以後かれの子孫が祠官職を務めた。近世大名の堀田氏も紀姓を名乗り、津島神社祠宮堀田氏の一族といわれている。

堀田弥五郎正泰は安岡正篤先生の祖にあたられる。

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専門の歴史家の著した書籍で事実と扱われたものはなく、中世史家の小和田哲男も史実ではないとしている。信憑性はかなり低いとされる。

日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
徳川家光の乳母には、明智光秀重臣斎藤利三の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀重臣溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること。
山崎の戦い明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。
明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。
明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺、江戸の正徳院に奉納され現存している。
天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。

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南光坊天海は、
 非凡な奴であつたらしい。
 あれが今暫らく頭を賈くせなかつたなら、屹度家康公に向かつて弓を引いたであらう。
 あの男はもと、宗家の葦名家が滅亡した為に流浪落魄して、とうとう叡山の坊主になつたこで非常に苦学したるものだが、一朝家康公の知遇に感激してからは、赤心を捧げて徳川氏の為に●(判読できず)策経営の労を執ったのだ。

 なかなか今時の懶惰書生が、十分の学費がありながら、それで何事も仕出来さないで、空しく一生を過ごしてしまふのとは、頭から比べ者に成らない。 

 処で家康公が天海を何故用ゐられたかといふことについては、おれに一説がある。其れは、外でもないが、家康公は幼少の時に今川氏の質となつて、駿河臨済寺で読み書きの稽古をせられたが、その寺の住職は、余程な高僧であつたと見えて始終今川家の枢機に参与して、今川の為には随分功労があつたらしい。

 家康公は明け暮れ其れを見てお居られたから、出家といふものは、政治上至極大切なものだといふお考えが、深く脳髄にしみ込んで居たに相違ない。そこで後の天海の非凡な坊主であることを見ぬかれて、あの通り重く用ゐられたのだ。三代将軍が、沢庵和尚を座右に置かれて、始終民間の事情や何かを聞いて居られたのも、つまり、家康公が、天海におけるのと同じ筆法だ。

 それはさて置き、天海はあれ程の人物であつて、そしてあれ程重く家康公に用ゐられたとすれば、天海の事績といふものが、それ相応には伝わって居なければならないのに、それが一向歴史にも載つて居ないのは、何故だらうかと疑ふものがあるかも知れない。
 が併しその伝はつて居ないのが即ち天海の天海たる所以なのだ。

 今日たつた事を棒の様に吹聴するのが今時の流行だが、天海なるのはすぉれと違つて、家康公の枢機に参与しても、どんな事を計画したのか、世間へは少しも吹聴しない。
 この吹聴しない、少しも分からない底に、叩くと何だか大きく響くものがあるのだ。
 そこが即ちえらいといふものよ。

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英雄、英雄を知る諸般機微の消息は俗人には分らぬ。

太田夫人は「これは秘してはならぬと思ひ、皆さんにお話して居ります」と語られました。

そして聖師様がもし、此の霊覚によつて訂正さるるならば、世界の歴史も随分変つて来るかも知れないと思ひました。

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祭礼の際に祭られる稲穂や神社の本坪鈴に由来した神官の姓氏とされる。

鈴木を名字とする家の多くは穂積朝臣を本姓としており、熊野三山信仰と関係が深い。

穂積姓鈴木氏は熊野本宮の出身で、蟻の熊野詣で知られる熊野本宮大社に詣でる信者たちの世話や指導をする熊野御師を筆頭に、神官を受け継ぐ家系である。

鈴木氏は熊野神社勧進や熊野を基地とする太平洋側の海上交通に乗り、神官として東日本を中心とした全国へ広まった。

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和歌山県海南市藤白466番地の藤白神社内に現存する、熊野信仰を広めた神官の一族である藤白鈴木氏がかつて居住していた屋敷だとされている建物。全国で二番目に多い「鈴木」姓の発祥の地とされる。牛若丸(源義経の幼名)が熊野往還のたびに滞在して山野で遊んだという言い伝えがある。屋敷の前には「曲水園」という、今も残る歴史ある日本庭園がある。

2013年5月22日に開催された第7回全国鈴木サミット&鈴木フォーラムにおいて、全国に200万人ほどいるとされる「鈴木さん」に、朽ち果てた鈴木屋敷復元のための寄付が呼びかけられた。自動車メーカースズキの鈴木修会長兼社長もフォーラムに参加し、「スズキの海外進出」と題した基調講演を行った。