https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

香港では今月9日で一連の抗議活動が始まってから5か月になりますが、政府や警察への市民の反発は収まっておらず、連日のように各地で集会やデモが行われています。

2日は今月24日の区議会議員選挙に立候補した民主派の候補らが香港島の公園で集会を開き、政府が導入した抗議活動で顔を隠すことを禁じる規則の撤廃などを訴えました。

その後、マスク姿の一部の若者たちが中国国営の新華社通信の支社を襲い、入り口のドアを破壊して1階のロビーに火をつけました。

また九龍半島の繁華街でも地下鉄駅に火炎びんが投げ込まれ、警察は催涙弾を使って取締りに乗り出し、混乱が広がりました。

警察は一連の取締りで3日未明までに男女200人以上を違法な集会に参加した疑いなどで逮捕したということです。

香港では集会やデモに参加する人の数は当初に比べて減りつつありますが、警察の取締りでの暴力が行き過ぎているなどとする市民の反発は依然強く、収束の見通しは立っていません。

d1021.hatenadiary.jp

中国とASEAN10か国による首脳会議は、日本時間の正午ごろからタイの首都バンコクの近郊で行われました。

会議の冒頭、中国の李克強首相は「国際情勢や地域情勢が複雑な変化を遂げる今、われわれの協力の安定的な発展は地域や各方面にとって有益だ」と指摘しました。

そのうえで、南シナ海での紛争を防ぐためのルールとして中国とASEANが策定を目指している「行動規範」について「共通認識に沿って進めたい。この行動規範は、南シナ海の長期的な平和と安定をもたらすものだ」と述べ、これまでの予定どおり今後2年以内に取りまとめたいという意向を示しました。

南シナ海をめぐって中国がみずからの海域だと主張して軍事拠点化を進める中、ベトナムなど領有権を争うASEAN加盟国や、アメリカが中国の動きを警戒しています。

中国としては「行動規範」の策定をASEANとの間で予定どおり進めていくことで、南シナ海をめぐる問題に関与を強めるアメリカの影響力を排除したい思惑があるとみられます。

d1021.hatenadiary.jp
d1021.hatenadiary.jp

そのうえで、関係改善と発展のカギは相互信頼にあるとして、「特に歴史と台湾の問題に適切に対応することが大事だ」と述べ、改めて歴史や台湾の問題で日本の対応にくぎを刺しました。

d1021.hatenadiary.jp

東シナ海では、中国の挑発でアメリカの同盟国である日本が戦闘機をかつてないほど多く緊急発進させられている。日本が施政下に置く尖閣諸島の周辺では、中国当局が60日以上連続で船を派遣した」

河野太郎防衛相「習近平主席を国賓で招こうとしてる時に、毎日のように接続水域に海警が入ってくる… こういう事が続いてる限り、日中が正常化したとは言えない」

 満州で岸が直面したのは「満州産業開発5カ年計画」だった。これは石原莞爾ソ連の5カ年計画をモデルに、腹心で満鉄(南満州鉄道)調査部の宮崎正義に立案させたものだったが、石原が満州を離れ、推進力を失っていた。

 ここで、満州経済を推し進める主体が、満州に理想を懸けた「王道主義」の石原グループから、対立した人々に「アカ」と呼ばれることもあった岸ら統制経済官僚に移ったといえる。岸はさらに、満州の経済開発の担い手を、旧財閥でなく、鮎川義介率いる新興財閥の日産に任せた。

満洲を振り返ってみると、下手ではあるかもしれんが、俺の描いた作品が満洲にずっと残るだろうと言ったんです。しかし、これから帰る日本を見てみると、先輩たちがいろいろな方面から描き散らしているもんだから、かつて自分が描いた絵はどこにあるか分からん。満州には下手なりに自分の作品が残っていく」と岸は語っている(原彬久編「岸信介証言録」)。少壮官僚にとっては、満州はまだ何も描かれていない真っ白なキャンバスだったということだろう。

 一方、「満州事変の舞台裏」解説でも触れた「満洲青年連盟」の小澤開作らは「王道楽土・五族協和」を掲げて、中国人らと民衆教化組織「満洲協和党」を結成。それが「満洲国協和会」に改組される。

 石原は、協和党を関東軍に代わる満州国の最高政策決定を担う機関にと構想していた。しかし、日本国内で「五・一五事件」が勃発。挙国一致内閣ができるなど、時代の流れが変化していた。協和会は名誉総裁に溥儀、名誉顧問に本庄が就くなど、官製機関の色彩が濃くなり、甘粕がその総務部長となる。石原が満州からいなくなって、彼の思想を信奉していた人々への風当たりが強くなり、小澤らは協和会の中心から遠ざけられる。

 甘粕と石原は一時は同志だったが、合理主義者の甘粕と理想主義者の石原はしょせん「水と油」。さらに、石原と犬猿の仲だった東条英機(のち陸相、首相)と甘粕が同じ「憲兵畑」で親しかったことも、両者の距離を隔てた。

 こうして「石原時代」の満州国の姿は決定的に変貌する。「キメラ」はそれを「王道から皇道へ」と表現している。石原は1937年に関東軍の参謀副長として再び満州に登場するが、「既に満州国は建国に携わった人々の手をはるか遠く離れて、能吏型軍人、行政テクノクラート特殊会社経営者の鉄の三角錐によって運営される体制になっていたのである。

 その体制を象徴するのが世に二キ三スケと称された星野直樹(総務長官)、東条英機(関東憲兵司令官、関東軍参謀長)、岸信介(産業部次長、総務庁次長)、鮎川義介満洲重工業総裁)、松岡洋右(満鉄総裁)である」と同書は指摘している。間もなく、石原は直属上司の東条参謀長と正面から衝突して閑職へ去る。

 満州国の最期はあっけなかった。1945年8月9日、ソ連軍が侵攻すると、溥儀は新京を逃れ、日本の敗戦翌々日の8月17日、皇帝を退位。ソ連軍に逮捕されて収容所生活を送る。その間、東京裁判に証人として出廷したが、「満州国当時の行為は全て日本の脅迫によるもの」と虚偽証言。不評を買った。

 1950年、共産党が権力を握った中国に引き渡され、戦犯管理所で思想改造の日々を過ごす。毛沢東共産党幹部の政治的配慮もあったのか、1959年、特赦。人民政治協商会議の委員を務めるなど“復権”を果たし、1967年、腎臓病などのため、61年の数奇な生涯を閉じた。

 岸ら満州で力を発揮した官僚や経済人たちは、戦後も懐古的な気持ちが強かったようだ。1965年に刊行された満洲回顧集刊行会編「あゝ満洲」には、そうした気分があふれている。巻頭に「東亜和平之礎石」という岸信介の書が掲げられ、岸は「序」で「(満州は)民族協和、王道楽土の理想が輝き」「当時、満州国は東亜のホープだった」とした。ほかにも戦後の「満州評価」に真っ向から反論する言葉が並ぶ。

「今日では、第2次世界大戦後の戦勝国側の一方的な独断的見解と、これに迎合し追随した浅薄な一部の日本史家の不見識と曲解とにより、『日本の偽装せる帝国主義的侵略』と断定され、しかもこれが日本の“不当な日中事変”と“無謀な太平洋戦争”を引き起こして、遂に日本を破滅に導いた根本の歴史的動因だとされてしまっている。これはとんでもない間違いで、歴史の真相を誤ることこれより甚だしきはない」「(満州国で)実際に率先して再建国のために最前線に働いた日本人は、自国政府の意向に反対してまでも、五族協和の新国家建設に挺身奮進した」……。

 それからでも半世紀余り。2008年には日中両国の研究者による「日中共同研究 『満洲国』とは何だったのか」が出版されたが、それでも両国の研究者のスタンスには大きな違いがある。

「キメラ」を読むと、日本の軍部を中心とした満州国建国と満州支配には、結果論でなく、ほとんど正当性は認められない。満州の実体は「五族協和・王道楽土」のスローガンとは懸け離れたものだった。現在の中国では必ず「偽」を付けて「偽満州国」などと呼ぶ。戦後国際政治の中での日中関係は複雑だった。しかし、たとえ「負の遺産」であっても、批判を前提にしても、教訓を後世に生かす研究はなされるべきでなかったか。石原莞爾の批判と再評価も含めて、そうしたことが実現する日が来るかどうか……。

 実は、甘粕正彦岸信介は非常に親しかったとする資料が多い。「岸は甘粕を高く買い、“刎頚の友”になっていくのである」(太田尚樹「満州裏史」)。

 小林英夫「『昭和』をつくった男」は「満州国で岸は、麻薬王といわれた甘粕正彦と接点を持ちます。表の帝王が岸であれば、裏の帝王は甘粕であるともいわれました」「甘粕はアヘンの専売を一挙に手に入れて大もうけをしました。もうけの一部は甘粕がフィルターの役目を担って、岸に献金されていました」「岸も甘粕も毎晩毎夜、芸者をあげて酒を飲んで、どんちゃん騒ぎをしたといいます」と断定的に書いている。当たらずといえども遠からずだったのだろうか。

 甘粕はその後、満州映画協会の理事長となって李香蘭山口淑子)を売り出すなど、実績を挙げ、満州で実権を握り続けた。そして敗戦時、青酸カリをあおって自殺する。

 岸は満州で発揮した政治的な手腕に自信を深め、東条内閣で商工相に。戦後、A級戦犯となったが、訴追を免れて政界に進出。GHQ(連合皇国軍総司令部)の後押しもあって、首相に上り詰める。1960年に日米安保条約改定を強行して退陣したが、その後も政界に隠然たる影響力を持ち続けた。満州を舞台に陰に陽に力を振るった2人の人間の対照的な後半生だった。

d1021.hatenadiary.jp

 石原は敗戦の1945年8月15日当日、「都市解体、農工一体、簡素生活」という「平和三原則」を提唱する。彼の考えを継承した団体「石原莞爾平和思想研究会」がいまも存在するが、その中心だったのが、日本新党参院議員を務めた武田邦太郎氏(故人)。田中角栄・元首相の「日本列島改造論」を審議する懇談会の委員を務めたが、筆者の取材に「日本列島改造論は石原イズムだと思った」と語った。東亜連盟の支持者には理化学研究所の中興の祖・大河内正敏所長がおり、そのつながりから、石原の死後、このスローガンをそのまま使って最初に衆院選に出馬(落選)したのが田中元首相だった。

d1021.hatenadiary.jp

 岸と安岡は対照的存在ともいえた。年令は2歳岸が上である。ともに政治家を目指して一高に入り東大を卒業した。秀才の多い両校の中でも二人は特別の存在であった。岸が明治維新の原動力となった長州出身で、維新時に活躍した曾祖父佐藤信寛を深く尊敬していたのに対し、安岡は楠木正行の戦死した古戦場四条畷の地で中学時代を過し、楠木正行とともに討ち死にした堀田正泰が遠祖であることを誇りにしていた。後述するように安岡の生家は堀田家で一高時代に安岡家の養嗣子となっている。
 両者は共に東大法学部の上杉慎吉門下で、二人とも卒業時には助手として学校に残ることを上杉から奨められている。

 岸の「統制と秩序」の考えは国家経済統制への道となったのに対し、安岡の理想は、国家の選良の人格陶冶と見識の養成による政治であり、そのための選良の育成であった。
 古今の聖賢に学び、着実に人物を作ってゆく、という考えである。

d1021.hatenadiary.jp

同時に、安岡は朝鮮や満洲・中国にもしばしば旅行して、講
演をしたり、各地の識者と懇談した。朝鮮総督宇垣一成に招
かれて全道知事に話をする一方では、反日独立運動の闘士・寉
麟と肝胆相照らす仲になったりした。

 五族協和とか、王道楽土と言われながらも、現地の日本人政
治家や役人、商人の堕落、現地人蔑視の話を聴き、安岡は次第
に日本の前途に対する心配を抱いていった。そこで元の時代の
政治家・張養浩が司法・立法・行政に携わる者への具体的な提
言を記した「三事忠告」を翻訳・出版した。この本も大きな反
響を呼び、参謀本部からも現地の将校や有志に読ませたいので、
軍で増刷させて欲しいとの依頼まで出た。

 安岡はこの本をテキストにしながら、「役人は規則を厳正に
する余り、法規違反者にばかり囚われてはいけない。温情を旨
とし、人々に親しみながら、困っていること、苦しんでいるこ
とを聞き、助けてやって欲しい」と説いて回った。

 安岡が各地を回ると、この本への感謝がたびたび寄せられた。
済南の特務機関の堀尾中尉は、この書一冊で現地の人々から大
変な尊敬と信頼を勝ち得た、と語った。しかし、中国共産党
蒋介石に煽動された反日抗日運動と、日本の大陸進攻の狭間で、
安岡の心配は現実のものとなっていった。

8月13日の講義では、春秋左氏伝の「国の将(まさ)に興
らんとするや明神これに降る」の一節を引いて、こう語った。

神に対する深い自覚があったならば、日本はこうならなかっ
た。神を汚すこと、近代日本の指導者たちほど、甚だしい
ものはなかった。

「神に対する深い自覚」の意味する所は、明治天皇の次の御製
から推察できるだろう。

神祇
かみかぜの伊勢の宮居を拝みての後こそきかめ朝まつりごと

毎朝、はるか伊勢神宮を拝んで心を澄ませ、その無私の心を
もって、日々の政治上の報告を聞いたという御製である。安岡
は、近代日本の指導者は、イデオロギーや私利私欲に囚われて、
神が人民の安寧を願う心を持って、それを政治において実現し
よう、という使命感を失っていた、と言うのであろう。

www.youtube.com

安岡正篤先生 1 1

www.youtube.com

安岡正篤先生 1 2

#山海関#中原#張作霖
#理論#イデオロギー#論理#情理#パスカル#道理