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 陛下も皇太子時代から、何十年もの間、相談できるような有識者を探しておられたというが、いまだにそのような人物はおそばにいない。

 宮内庁参与ではなく、もっと身近で進言も厭わない人物を本気で探すか、宮内庁の中に問題が起きた時に対処する専従班を配置するなど根本的な構造改革を行えるかが問われている。そうでなければ同じような悲劇を繰り返すだけではないだろうか。

 雅子さまも「力が入らない」「怖い夢を見る」などのご体調の不調を訴えられて、自ら公務先の医者などに相談してから、やっと主治医が着任したのは皇太子(現天皇)の「人格否定発言」のあった04年。同年7月に病名「適応障害」の発表となるまでには、雅子さまが体調の変化を訴えられてから、実に3年も要した。

 美智子さまのお悲しみ、雅子さま眞子さまのご病気。30年近く経っても同じことが繰り返されている。これからは、自由を求める皇族方がもっと増えるだろう。宮内庁が「お仕え」するだけの組織であり続けるならば、その変化を受けとめきれなくなる。そうなれば国民の信頼を失い、皇室離れに繋がりかねない。

 そもそも「誹謗中傷」とは、根拠のないことを言いふらして他人の名誉を傷つける行為を指すものである。さる皇室ジャーナリストが言う。

「あたかも、報じられた記事は全て根も葉もなく事実無根で、それを読んだ国民に“騒がないでほしい”と沈黙を強いるような物言いです。批判や指摘といった文言ではなく“誹謗中傷”を連発しているところに、宮内庁はもとより眞子さまの強いご意思を感じます。実際に新聞やテレビの論調は、この日を境にトーンダウンした感がある。ご病気の公表は“萎縮効果”てきめんだったわけです」

 今回、こうした発表を行えば、世間のさらなる反発を招くことなど容易に予測し得たはずである。にもかかわらず、宮内庁はあえて“茨の道”を選んでしまった。というのも、

「今回の発表は、すべて眞子さまのご希望に沿う形でなされていました」

 とは、宮内庁関係者。

「会見では、眞子さまが変調をきたしていった過程を時系列に沿って説明していましたが、所々で“守秘義務”を理由に説明を拒む場面もあった。それは診断の時期や恐怖を感じる“特定の文字”に関する部分です。医師や大夫は事前に眞子さまと入念に打ち合わせをし、“ここまではお話しして結構です”“ここは伏せてください”といったご意向を受け、事細かに流れが作られていったのです

 皇嗣職トップといえども、内容について進言するなど不可能だったというのだ。

「庁内では、結婚問題に関する発表は“眞子さまのご意思のままに”と位置付けられています。それは昨年11月に発表された『お気持ち』でも明らかで、眞子さまは結婚を“二人が生きていくために必要な選択”と述べられていた。すでに当時から、激しいお気持ちの発露をお諫(いさ)めする側近など皆無だったのです」(同)

 さらには、

秋篠宮ご夫妻との“溝”もまた、大いに影響しています。結婚問題が暗礁に乗り上げた後、毎週金曜日に行われる会見を前にした加地大夫との打ち合わせはご夫妻と眞子さま、別々になさってきた。小室さんが4月に公表した文書の作成に、眞子さまのご意向が大きく反映していることはすでに報じられていますが、これも秋篠宮さまを通さず、眞子さまの一存で“このように伝えてほしい”と決められた結果でした」(同)

 この時もまた“民間人同士の紛争に皇族が介入した”と、世間の批判を浴びてしまったのだが、

「そうしたお振る舞いの積み重ねに対する批判まで“誹謗中傷”とひと括りになさるのであれば、やはり違和感を禁じ得ません」(同)

皇室ジャーナリストの神田秀一氏が言う。

「今回の発表は“誹謗中傷”が何を指しているのか、その説明が全くありません。診断時期やこれまでの治療についても何ら言及しておらず、ただ“温かく見守れば回復に進む”と言われてもさまざまな臆測や誤解を生むことになり、実に無責任です。平成を通じて令和へと受け継がれてきた『国民とともに歩む皇室』のお姿からは大きくかけ離れており、あってはならない事態です」

 国民を敵視するかのようにも見受けられる結婚直前のお二人は、皇室に致命的な爪痕を残しつつあるのだ。

 天皇陛下(61)も当初は「朝見の儀」を望まれていたという。「朝見の儀」とは、眞子さま天皇、皇后両陛下にこれまでのお礼とお別れの挨拶をされて、陛下からお言葉を頂く儀式で、皇族方もそろって参列される。陛下が執行に心を寄せられたのは、挨拶の重要さだけではなく、正式な儀式を経たほうが、いつか眞子さまが皇室に連なる仕事に携わる時に、戻りやすいのではないかとのご配慮だったとされる。

 皇室関連の行事や執務を担う皇族の人数は圧倒的に少ない。天皇の妹で眞子さまが「ねえね」と呼ぶ元皇族の黒田清子さん(52)は、都庁職員の黒田慶樹さん(56)と正式な儀式を経て挙式し、結婚後も伊勢神宮祭主として活動されている。

 秋篠宮家の「儀式を行わない」という意思は固かったといわれる。さらに眞子さま精神疾患だということも、天皇陛下のご意思の方針転換に繋がったようだった。陛下は同様の精神疾患の雅子皇后(57)と歩まれてきただけに、眞子さまに無理はさせたくないとのお気持ちも強かったのかもしれない。

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宮内庁の西村長官は、眞子さまの結婚に対する天皇皇后両陛下の受け止めについて「両陛下には、眞子さまがこれまで皇室の一員としてさまざまな公的ご活動に真摯に取り組んでこられたことに対して、心からのおねぎらいのお気持ちをお持ちでいらっしゃいます。また、今後、幸せな人生を歩んでいかれることを願っておいでです」と述べました。

#リベラル#利己主義#反立憲主義#人の支配

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宮内庁は、皇族の味方ではありません。皇族を監視しているのです。

 「皇族をお助けしよう」などとするはずがありません。宮内庁は見守っている、ウオッチャーです。「ああ、そうですか」と僕も思ったのです。

 だから、無責任な行動ができるわけです。警視庁長官上がりの西村長官を入れて、次長も警察上がりです。2人も元警察官僚がいて、皇室を見張っているのです。

 宮内庁は「変なことをやっているな」と思っても、皇室がどうなっても関係ありません。むしろ、滅びることを望んでいるのです。

 GHQは、11宮家を廃止して、天皇人間宣言をさせたのです。「宮家を減らしたから、天皇はなくなっていくだろう」と考えたのです。GHQは、天皇がなくなることを望んでいるのです。

 「アメリカが天皇を潰した」と言われないように、ごく自然に皇室がなくなるように仕込んだのです。

 昭和天皇の四女、厚子内親王池田隆政氏と結婚する際(1952年)の一時金は当時700万円であった。池田氏は結婚後、岡山で池田動物園を開園する。しかし経営は当初うまくいかなかった。国会では「一時金がゾウとトラに食われた」と批判された(61年3月、参議院予算委員会第一分科会)。動物園経営に使われたとの批判であるが、一時金を何に使おうが自由である。

 眞子さまの場合、一時金を国民ひとりに換算すると1円ちょっとであった。30年間も自由を奪っておいて、結婚のお祝いを1円も払えないのかと言いたくなる。

 眞子さまは無一文でニューヨークに渡るわけではない。一時金がない分、宮家の蓄えからいくばくかは持っていくはずだ。

 内廷費皇族費は、天皇・皇族への給与と考えると分かりやすい。公務員給与と同じ性格を持つ。使い道は問われない。

「皇室マネー」の公私の線引きは微妙である。男子皇族は皇位に就く可能性があり、教育費は公的マネーである宮廷費でまかなうのが基本だ。天皇陛下秋篠宮さまも学習院の授業料は宮廷費からであった。

 ただ、悠仁さまがお茶の水女子大学付属小学校に入学する際、「国民の負担や社会情勢を考えて」という宮家の申し出があり、皇族費で払われることになった。これに対し、女性皇族の学費は常に皇族費扱いだった。

 秋篠宮家の「給与」は多額に見える。しかし、宮家の家政運営は、宮内庁から派遣される宮務官、侍女、コック、運転手だけでは回らない(1990年の宮家発足時は7人だった)。侍女長は、掃除や洗濯まではしない。だから「お手伝いさん」が必要で、子どもが小さい時、保育士も必要になる。私的使用人として宮家が雇用する。一般に、皇族費の半分は人件費に消える。

 宮邸の水光熱費、コメ、肉、魚……といった食費もここから支出される。

 宮家のお金は、皇嗣職大夫が通帳を管理する。歴代の管理者たちは家計運営が大変であった。なぜなら、悠仁さま誕生で、「きちんとした帝王教育を」というプレッシャーを受け始めたためである。

 むろん、秋篠宮家にもそれなりの貯蓄はある。皇族は、国民年金にも国民健康保険にも入れない。病気をしても、宮内庁病院以外に通えば、全額自費払いである。万が一に備えるのは当然だ。

 宮家にとって最も不安だったのは、娘たちが結婚する際に持たせる金であろう。結婚後もそれなりの暮らしをさせるために、一時金に加えそれなりの額を渡す準備をしているはずだ。

 皇族費は一人ひとりにつき算定されるから、眞子さま分として支払われた額も計算できる。10月までに1億4953万円になる。さらに、贈与税の非課税限度はかつて60万円、2001年度以降は110万円であり、両親が眞子さまに毎年限度額いっぱい贈与したとすると5820万円になる。

 あくまで計算上だが、眞子さま個人が2億773万円を持っていてもおかしくない。ほかにも東大総合研究博物館の給与が加算される可能性もあるが、いずれにせよ、2億円超を米国に持ち出しても問題にならない。

 眞子さまは私的マネーである皇族費から宮家が苦労して貯めた金を持っていく。額は分からないが、他人の家計に口出しはできない。確かに宮家には公務員が多数いて、宮邸も国が用意する。その点で皇族は税金で暮らしている。しかし、眞子さまへの税金投入を問題視するのなら、皇室の存在自体を問う必要がある。

 眞子さまと小室さんに「血税を使うな」という批判がある。国民の一人ひとりが、税金により教育を受け、さまざまな福祉サービスを受けている。血税というのであれば、その言葉はたちまち批判者に返ってくる。小室さんがこれからも皇室マネーでリッチな暮らしをするかのような見方もある。皇室経済法の財産移動の制限により、そんなことはあり得ない。

 小室さんは、米国弁護士という競争社会で苦労することもあるだろう。2人で乗り越えれば良い。普通の市民として生きるのだから、特別の警護も必要はない。小室さんが血税を奪っているかのような言いがかりは、未来ある青年への侮辱である。

#反立憲主義#人の支配

今回は秋篠宮家の側近職員である「皇嗣職」が執り仕切るという。

宮内庁側は、眞子さまをできるだけ皇族らしく送り出したいと考えています。ですから、今回の会見もこれまでの皇族方の結婚会見と同じように進められるでしょう。出席できる記者はかなり制限されるそうです。

 内容は、一部の記者が事前にまとめた質問に対して、こちらも事前に用意した回答を読み上げる形になると思われます。佳代さんの金銭トラブルや小室さんの経歴詐称疑惑など、小室さんにとって不利な質問は、事前に弾かれ、そもそもなかったことになる。いわば“完全黙秘を貫く会見”となるでしょう」(皇室ジャーナリスト)

 秋篠宮さまが強く望まれた「国民の祝福を受けて」という条件は、完全に反故にされてしまうのかもしれない。

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#天皇家

秋サケやウニの大量死の原因は赤潮とみられています。

道によりますと、赤潮は9月中旬、釧路市の桂恋漁港で確認されました。

その後、根室市から日高の様似町沖合にかけての太平洋側の広い範囲で発生しているのが確認されました。

さらに今月に入って浦河町新ひだか町でもウニが漁場などで死んでいるのが見つかり、被害を受けた海域が西に広がっています。

水産庁などによりますと、10月8日までに確認された被害はウニ1400トン以上、秋サケ1万7000匹にのぼり、被害金額は45億円余りに達しています。

またウニの被害も深刻で、釧路市釧路町では放流したうちのおよそ9割、厚岸町で8割、浜中町で5割が死んでいました。

北海道のウニ漁は、小さなウニを海に放流して成長させてから3、4年後に水揚げするため、来年以降の水揚げにも影響するとみられます。

このほか、十勝の豊頃町では養殖のクロソイが400匹死んでいたほか、釧路市ではツブ200キロの被害も確認されています。

道によりますと、道内での赤潮被害としては過去最大だということです。

道立総合研究機構の調査で今回、道東沖で赤潮を引き起こしたプランクトンの種類がわかってきました。

このうち「カレニア・ミキモトイ」は、主に西日本で漁業被害をもたらしてきたプランクトンです。気候変動にともなう海水温の上昇で道東沖まで北上し、赤潮につながったとみられています。

また「カレニア・セリフォルミス」という種類も見つかりました。

2020年9月から10月にロシアのカムチャツカ半島沿岸で発生した赤潮の原因とされています。日本で赤潮を発生させたのは初めてだということです。

今回、赤潮被害が出た道東沖の海では「カレニア・ミキモトイ」よりも「カレニア・セリフォルミス」のほうが多く検出されています。

複数の研究者は「カレニア・セリフォルミス」が北方の冷たい海から南下してきた可能性を指摘していて、今回の赤潮は温暖化だけではない原因が考えられるとしています。

プランクトンに詳しい北海道大学の今井名誉教授は「日本中の赤潮を見ているが、北海道でここまでの赤潮が発生するのは本当に驚いている」と話しています。

また、赤潮の原因とみられるプランクトン「カレニア・セリフォルミス」について「ニュージーランドチュニジアなど世界各地で確認されているが、私自身は日本で赤潮を発生させるプランクトンという認識はなかった。北海道でも海の状況が整えば赤潮になるということが実現してしまったのは恐ろしいことだ」と話しました。

今後の見通しについては「海水温が10度以下に下がって冬の季節風が吹いてくれば赤潮は解消されると考えている」としたものの、カレニア・セリフォルミスの低水温への耐性がよく分かっていないことから「北海道周辺で越冬ができるのか調査することが喫緊の課題だ」と指摘しています。

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電磁気学的異常が検出されておりますので念のためにしばらくの間は注意しておくといいかと思っております。
【10/13配信】本日の地震解説と予測情報
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【危険】東京が危ない理由!

#気象・災害

「日本を国連安全保障理事会常任理事国にしたかった」。昼下がりのパリ官庁街の一室で、ガリは無念の国連事務総長退任から10年後も、熱心に弁じた。「でも、1992年から93年ごろは、日本国民は腰が引けていた。正直言って、なぜだろうと思った」

 なぜだろう、はむしろこちらの疑問だった。なんで、そんなに日本に期待したのか。ことによると関係があるかもしれない、と胸の内に畳み込んでいたエピソードを持ち出してみた。

「ところで、日本へ行くと必ず東郷神社に参拝に出向いたそうですね」

 ガリの再任が安保理アメリカに拒否された翌日、ニューヨーク・タイムズ紙のベテラン国連記者が、その逸話を紹介しつつ、アメリカに立ち向かうガリを、ロシアの大艦隊に立ち向かった東郷平八郎に例えた記事を書いたのを覚えていた。

 ただ、記事は参拝の理由には一切触れていなかった。欧州から中東一帯にかけ、ロシアに圧迫された国々には「東郷神話」があることは広く知られていたから、背景はそんなところだろう、と思っていた。

 1990年代はじめ、フィンランドヘルシンキに取材で飛び、仕事の合間にのぞいた食料雑貨店で、東郷提督の肖像をラベルに張ったビールが置かれているのを見つけて、「やっぱり本当だった」と、ちょっぴりうれしくなったのを思い出していた。

 だが、ガリが遠い昔を懐かしむように語り出した物語は、重いものだった。

「家族の思い出にかかわることなのです。私の家族が政治家一族なのはご存知でしょう」

 白人に有色人種がかなうわけがない。しかも相手が、世界最強の海軍力を誇る英国となれば、なおさらだ。そんな議論を突き破るように叔父が持ち出したのが、東郷平八郎だったという。

「でもニッポンは違うじゃないか。ロシアの大艦隊だって打ち破ったじゃないか。東郷提督を見ろ。いつかはエジプトだってニッポンみたいになる。東郷が現れるんだ」

 父と叔父の論争はガリが生まれる前後のことだが、幼い頃からこの激しい家族内の論争について聞かされた。子どものころから、周りにいる英国兵に反感を持ち、「英国は敵だ」と思っていた。叔父から投獄体験を繰り返し聞かされていたこともあったに違いない。

 冷戦期に東西両陣営から距離を置く非同盟運動にかかわった世代のためか、ガリは「北」と「南」という表現で、日露戦争について語った。「南の国だった日本が、北の国ロシアに勝った。エジプトにとって、東郷提督の勝利は、植民地帝国勢力である北に対する貧しい南の国々の勝利だった。植民地解放への動きだと捉えた。だから祝った」

――祝った?

「詩人たちはアラビア語で詩を読んだ。親たちは男の子が生まれるとトーゴーと名付けた。エジプトにとっては偉大な出来事だった。東郷のことなら日本人に教わるまでもない。エジプト人ならみな知っている」

 かつての欧米の植民地における「日露戦争神話」や「東郷神話」について、読んだり聞いたりしたことはあったものの、これほどハイレベルの知識人で、これほど国際化した人物から、みずからの家族の歴史に絡めて直接聞かされたのは、はじめてだった。

 実に「神話」であった。台湾・朝鮮半島に版図を広げ植民地帝国になった日本については捨象されている。日露戦争と東郷だけが、まるで自国の古代の神話の出来事と英雄のようになって、エジプト人ナショナリズムをかき立てていた。

 ガリは長じて国際法学者となり、世界的な名声を得る。やがて、1970年代初めに学術会議で日本を初めて訪れる機会が来た。初めての東京で、当然のように周りに尋ねた。「東郷提督の墓はどこか」。墓ではなく神社が都心にあると教えられ、神宮前の東郷神社に参拝した。幼い日の英雄を祀る施設を訪れることができ、感慨ひとしおだったという。

 以来、東京に来るごとに参拝した。だが、国連事務総長になると、日本外務省は平和のための世界組織、国連の事務方トップであるガリが「軍神」を祀る神社に参拝するのを嫌がった。ガリは日本政府関係者が周りにいない早朝に、そっとホテルを抜け出し、参拝に行ったという。

 午後のパリの陽光を窓の外に望み、時に両手を頭の後ろで組みながら、ガリは幼い日からの自身と日本のかかわりを、懐かしげに語り続けた。

「そういえば、詩人たちの読んだ詩を東郷神社宮司に送ったこともあった」。日露戦争での日本の勝利を読んだ詩のことである。エジプトの詩について何も知らない私は詩人の名を尋ねもしなかった。ただ、詩にも読まれるほど感動的な出来事だったのかと思うばかりだった。

 そうしたエジプト人の思いや、ガリ家の昔話を聞くと、事務総長だった時代にこの人が半ば無意識のうちに、日本に大きな期待を持ち、応援したのも当然かもしれないと、得心がいった。

 東京に戻って、原宿駅からほど近い、明治通り沿いの東郷神社を訪ねてみた。神社には確かな記録があった。ガリ国連事務総長時代だけで4回参拝していた。それ以前のエジプトの外交担当国務相時代にも1回来たという記録がある。本人は「数え切れないほど行った」と言っていた。学者時代も含め「私人」として、何度も来ていたに違いない。

 神社には、国連事務総長ガリが夫人と一緒に、神職らの居並ぶ前で神妙に玉串を供えている写真も保存されていた。ガリが言ったとおり、英語の手紙を添えて送ってきたアラビア語の詩の写しもあった。詩は英訳されており、「日本の乙女」という題だった。日露戦争に従軍した看護婦の姿を、当時のエジプトの詩人が、戦地にいかずして想像豊かに描き出した詩であった。ガリの説明では、ある世代以上のエジプト人ならだれもが知る傑作とのことだった。

私は日本の女性です。たとえ死の苦しみを嘗めようと、

自分の望みを達せぬまま引き下がることはありません。

……

天皇(ミカド)は東洋を目覚めさせ、西洋を揺るがせた

王者と仰ぐにふさわしいお方です。  (杉田英明訳)

 四十対句からなる長詩だ。うたったのはハーフィズ・イブラヒム(1872~1932)。「ナイルの詩人」の愛称も持ち、いまでも親しまれている国民的大詩人であった。

 エジプトにとっての日露戦争とは、そういうことであった。中国近代化の父である孫文(1866~1925)が1924年に神戸で行なった「大アジア主義」演説でも、こんな挿話が語られている。

 孫文が滞在中のパリからアジアに船で戻る途中、スエズ運河に差し掛かると、現地のエジプト人たちがたくさん船に乗り込んできて、孫文黄色人種なのを見て「おまえは日本人か」と聞く。「ちがう、中国人だ」と答え、「なぜか」と問い返すと、エジプト人たちは「素晴らしいことを聞いた」という。「まもなくたくさんの負傷ロシア兵を乗せた船がスエズ運河を通ってヨーロッパに運ばれる。アジアの東方の国、日本がヨーロッパの国ロシアと戦って勝ったのだ。われわれは自分の国が勝ったようにうれしいのだ」……。

 1924年といえば、幼いガリの父と叔父が言い争っていたころだろう。ガリの「日本の記憶」は、パリから帰る孫文スエズ運河で出会った、大喜びするエジプト人らの姿を映している。「南の国」ニッポンが「北の国」を打ち破って、希望が見えた。

 ガリとパリで会った3年後、訪日したカイロ大教授の国際政治学者と京都で会って話していて、ふと思いついて「『日本の乙女』という詩を知っていますか」と尋ねてみた。

 すると教授は英語からアラビア語に切り換え、朗々と詩を暗唱し出した。高校時代に習ったという。

「当時の日本人の強い決意を感じる詩でした」

 戦後まもなくに生まれた教授にとって、経済大国になる前の日本のイメージはこの詩に尽きるという。「エジプト人が日本に好意を抱くのは、この詩のせいです」。教授はきっぱりと言い切った。

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習主席は、中国共産党辛亥革命を指導した孫文の遺志を最も忠実に受け継いでいると主張した

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ユダヤ人が古代エジプトを経由した関係で、日本人には古代エジプト人の血が流れている。

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孫文 - Wikipedia

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第119代光格天皇の孫にあたる中山忠英(父親は光格天皇の第六皇子で、中山家に臣籍降下した中山忠伊)が光格天皇が目指した「四民平等の世、天朝御直の民」を実現し、日本精神を作興するため、1911年に創立された組織。

中山忠英が初代会長に就任した。

幹事長は頭山満、幹事は梅屋庄吉内田良平、花山院家威などが務めた。顧問には大隈重信東郷平八郎渡辺千秋、波多野敬直などがいる。

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東郷の名声を高めたのが、ハワイのクーデターと高陞(こうしょう)号事件だ。英国留学中に学んだ国際法が、寡黙な男の“武器”となった。

 翌年の夏、日清戦争が勃発。ここでも東郷は開戦早々、国際法をたてに果断な将器をみせる。

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