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クラーマンの研究の理論的、あるいは、法学・政治学上の意義はどのようなものなのでしょうか。それは、違憲立法審査権によって政治的弱者の基本的権利を保護するべきであると考えられている、そして、そのような役割を果たしてきたと考えられているアメリカの最高裁判所が、実際には、真の意味での少数者を保護することはできないという命題にあります。法は多数決ではなく、論理によって支配されるべき学問です。アメリカの最高裁は、ブラウン判決をはじめとする記念碑的な判決によって政治部門の暴走を抑制してきたと考えられえています。しかし、もっとも優れた法制史研究者の実証的な研究によれば、最高裁は結局、政治的多数派の意思を実現する程度のことしかできません。なぜそうなのかというのは、簡単には説明できないのですが、判決が多数派の支持するものでなければ、あるいは、判決への反対が非常に強ければ、裁判所の命令は実現されません。法的論理は、実際にはそれだけでは政治的な現実を排除することはできません。このことを実証したのがクラーマンです。

ただ、規範的な問題として、裁判所が政治的弱者を保護するべきであるという命題には依然として魅力があります。にもかかわらず、裁判所がもっとも大きな存在感を発揮してきたアメリカにおいて、裁判所が実際には世論の多数派の意見を実現する程度の役割しか果たすことができなかったという知見は、規範を旨とする法学研究者とって、非常に重要な指摘です。裁判所に社会正義の実現を期待するよりも、政治をよりよくすることが重要だということかもしれません。

クラーマンは非常に親切な人で、留学中の私にとても親切にアドバイスをくれました。私が日本に帰国してからも、英語で書いた拙い論文の草稿に、非常に懇切なコメントをくれたりしました。学者としての卓越性と、人間としての完成度の高さを体現した稀有な人物だと思います。

スタンツの著書は、刑事法の専門家でありながら、刑事法の問題だけではなく、憲法や政治制度についての、非常に大きな問題を、歴史的、実証的に、そして何よりも多面的に扱っています。その素晴らしさをもれなく紹介したいところなのですが、時間に制約があるので、陪審制度に関する議論だけ紹介します。

スタンツにインタビューしたときには、スタンツは陪審制度についてかなり批判的でした。この時私は、有罪無罪を判断するために考慮すべき多様な事項を統計的に整理することは不可能であって、陪審員の直感に委ねるべきことがあるのではないかと発言しました。私の記憶によればスタンツは、それは一回限りのアクターである陪審ではなく、裁判官に任せるべきであると言っていました。市民の判断よりもプロの裁判官の判断が優れているという考えだったと思います。

ところがその後スタンツは、アメリカの刑事司法の全体像を再構築する中で、この考えを変えたのです。アメリカは、いわゆる先進国の中ではもっとも犯罪が深刻な国です。犯罪発生率は高く、受刑者の数は極度に多い状況です。法定刑が重くなったことで検察官の交渉力が強化され、ほとんどすべての刑事裁判は答弁取引で処理されます。刑事司法における人種差別の問題も深刻です。アメリカの刑事司法制度は崩壊してしまったけれども、これを修復するためにはどうすれば良いのかという非常に大きな問題に正面から立ち向かったのがスタンツの著書です。この本の中でスタンツは、アメリカの刑事司法を修復するための処方箋をいくつか提示しますが、その1つが陪審裁判の増加なのです。

アメリカの刑罰は20世紀後半から、非常に厳しくなりました。なぜ厳罰化が進んだのかというと、議会が法定刑を厳しくしたからです。なぜ議会が法定刑を厳しくしたのかというと、犯罪が社会問題化して、犯罪に厳しい態度をとる政治家を有権者が選択するようになったからです。有権者の意向を政治部門が反映することは、それ自体ごく自然です。しかし、政治部門を動かす力を持つ有権者と、実際に犯罪が多発する地域に住んでいる住人は、必ずしも一致しません。政治的影響力を行使する有権者は、しばしば郊外の治安のよい地域に住んでいて、新聞やテレビで凶悪犯罪を目にして、犯罪対策を重視します。他方、犯罪が多発する地域に住む貧しい住民は、比較的政治には無関心です。政治が自分たちの暮らしをよくすることなどそもそも期待できないのです。このため、政治部門には、犯罪多発地域の住民の肌感覚が反映されません。犯罪問題を抽象的にとらえて、とにかく厳罰で臨むという強気な政治家が選ばれやすくなります。

法定刑が厳しくなると検察官の交渉力が強化されます。検察官は陪審審理を回避して、答弁取引によって有罪判決を獲得します。アメリカでは検察官は多くの場合選挙で選ばれるので、有力な有権者を見ています。その結果、政治主導の刑事司法は、ひたすらに厳罰化の方向に進みます。では、陪審審理が行われたらどうなるのでしょうか。

陪審員は原則として犯罪発生地の住民から選ばれます。犯罪が多発するような地域に住んでいる陪審員は、犯罪者の人間像を具体的にイメージすることができます。自分の家族や近しい地元の友人知人が犯罪を犯したら、あるいは被害を受けたら、という状況をイメージすることができるのです。これは、陪審員の任務との関係では非常に重要なことです。法律の専門家であれば、形式的な要件を満たすのであれば有罪として、重い刑を選択しなければなりません。しかし一回限りのアクターである陪審員は、評決に対して何ら責任を問われることはありません。したがって、市民感情に即した無罪評決を出しやすいのです。もちろん、犯罪多発地域の住民がむやみやたらに無罪とするといった事実があるとか、そうするべきであると言っているわけではありません。ただ、たとえば夫から長年にわたって深刻なDV被害を受けていた女性が、泥酔して暴力をふるって寝込んでしまった夫を殺害するに至ったような事件において、陪審なら超法規的に無罪とすることができるのです。こうした想像力は、郊外に住んでいる裕福な人々が犯罪問題を論じるとき、犯罪問題も含めて様々な社会問題を考えたうえで投票行動を行うとき、そのような有権者によって選出された政治家が、犯罪者に対して一層厳しい法案を審議するときには、十分に考慮されないでしょう。こうした政治プロセスの歪みが過剰な厳罰化を進行させてしまった原因であり、しかも厳罰化によって治安が良くなっているとは考えられない状況が存在するという悲劇的な現状を生み出しているとスタンツは考えました。

有罪答弁による刑事裁判では、被告人は自らの言い分を公の法廷で聞いてもらうことができません。有罪答弁は、大量の事件を文字通り機械的に処理するのです。このようにして生み出された大量の受刑者は、自らに厳しい刑が宣告された手続に納得することができません。納得できなければ、彼らに対する刑罰は、懲罰の意味しか持ちません。刑罰には、応報だけではなく、予防の目的もあることは皆さんご存知の通りです。受刑者を納得させられない刑事司法は十分な抑止効果を持ちません。スタンツは、地域の正義感覚を反映する陪審を活用することが刑事司法再生のカギの一つであると言っているのです。

卒業式でこのような話をしたのは、卒業する皆さんに私なりのメッセージを伝えたいからです。メッセージは、大きく分けて2つあります。1つは法と政治の関係をどのように認識するべきなのかという問題に関連します。もう1つは、彼らの学問上の業績ではなく、人間性から、大学人として知っておくべきことがあるのではないか、ということです。

法と政治の関係性について、私が皆さんにお伝えしたいのは、法律家ではない一般市民が法的政治的な問題に関心を払うべきであるということです。優秀な弁護士、検察官、裁判官に、法的な領域の仕事をすべて任せてしまってよいのでしょうか。アメリカの経験からは、必ずしもそうするべきではないと考えられます。ブラウン判決は大きな反動を引き起こしました。刑事司法についての最高裁判決は陪審審理の減少を促して、結果としてアメリカの刑事司法が崩壊する一因となりました。法律学のエリートがアメリカ社会を望ましい方向に導いたのか、大いに疑問の余地があります。また、陪審裁判に関するスタンツの知見からは、一般市民の考えを尊重するべき側面があることがうかがえます。

卒業生の皆さんは、様々な進路に進まれることでしょう。法科大学院に進んで法学の知識によって日本社会、国際社会で指導的な役割を果たす方もいるでしょう。公務員として法と政治にかかわる重要な職責を担う方もいるでしょう。民間企業で、様々な試練に立ち向かいながら、それぞれの意味で重要な役割を果たされる方もいるでしょう。他方、卒業後の進路が決まっていなくて、あるいは決まっているとしても何らかの理由で戸惑いを感じていて、自信を持てない方もいるでしょう。そのような皆さんに対して、私は、すべての方が、民主主義社会の重要な構成員であると言いたいと思います。大阪市立大学の法学部・法学研究科で学んだことは、法律家や公務員にならなくても、民主主義社会を支える市民として活用してください。法律家や高級官僚は専門的知識を持っているからといって傲慢になるべきではありませんし、市民の側も、法律家や政治的エリートの行動に常に緊張感をもって対処しなければなりません。民主主義を支えるのは市民の質です。民主主義は、市民の質が高いことを前提とした政治制度です。大阪市大の法学部・法学研究科を経た皆さんには、この意味で、最上級の市民であることが期待されます。

もう一つ、クラーマンとスタンツの人柄です。クラーマンは、日本法にはさして関心を持っていない彼にとっては付き合っても何の得もないうえに、アメリカ法についての学識についてはクラーマンよりもずっと乏しい私を、少なくとも形の上では対等な存在として扱ってくれました。本当に立派な人だと思います。

私がこうしたエピソードを紹介したのは、競争の非常に厳しいアメリカの法学者の中でも功成り名を挙げた例外的に優秀な研究者である彼らの人柄が、本当に尊敬に値するということです。厳しい競争社会の中でも他人のために時間を惜しまず、無償で他人のために時間を使ってくれるのです。クラーマンは私のような無名の外国人の論文に懇切なコメントをくれました。彼がきちんとドラフトを読んでくれたことは、コメントの内容からわかります。スタンツは、同僚の論文の草稿を読ませろと要求したそうです。大学人は、質の高い学問を流通させるために、目先の利害関係に左右されることなく堅実に行動するべき存在です。スタンツの誠実さについてもう一つだけ付け加えれば、彼は、陪審制度の是非という問題について、大きく立場を変えました。研究者が基本的な問題について立場を変えることは勇気を要します。そのことは、陪審というアメリカでは非常に重要な問題について、彼が長年、様々な角度から真剣に考え続けたことを意味します。

大学人とは何者なのでしょうか。私たち大阪市立大学の教員も、学生も、そして職員もすべてが大学人です。厳しい競争を強いられたり、時間的なゆとりがなくなったり、精神的身体的に大きなストレスにさらされたりしても、自分を見失わず、他人の意見を尊重して、しかし同時に他人に簡単に流されることなく、結論を急がずに基本的な問題を考え続けること、そして、そのようなことを可能とするような制度的な条件を確保することが大学人の使命です。それは、民主主義社会の質を高めること、そして、お金や数字に換算できない何かを大切にする、精神的な意味で豊かな社会を作ることにもつながります。

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